2006年3月30日 (木)

【認知療法・認知行動療法】コラムその13:EBMの理念を現場の臨床家はどのように目指すか?

  EBM(エビデンスに基づく医療)が提唱されて久しいですが,臨床心理学の領域でも,その後を追うように,「エビデンスに基づく臨床心理学」が提唱され,エビデンス重視の議論が活発になされるようになってきています。

  そもそも私が認知行動療法(CBT)を志すことに決めたのも,CBTが当初から治療効果研究を積極的に行い,そのデータを公表しているという実証主義に共鳴したのが大きな要因の一つでした。現在もCBTは,各障害におけるモデルを構築する際にも,各技法の効果を検証する際にも,実証的研究によるデータを重視し,データとモデルとの相互作用を積極的に追求しています。私自身,臨床実践と基礎的実証研究のインタフェースは最も興味のある領域であり,いつになったらまとめられるかわかりませんが,現場での臨床活動と並行して,実証データも少しずつ蓄積しております。(もうちょっと言えば,CBTそのものが,「実証的協同主義」と呼ばれるプロセスをたどるわけで,そういう意味ではCBTの一つ一つのケースそのものが,エビデンス・ベーストの実現を目指すものなのですが,この件はまた後日)。

  が,現場で臨床を実践している者からすると,鬼の首でも取ったかのように,「EBM!」「エビデンス!」とあまりにも連呼されるような場に遭遇すると(そんな場面は,特に日本の臨床心理学領域では,かなり例外的なのかもしれませんが),少々違和感を覚えます。RCT(無作為割付比較試験)が実施できる対象疾患や現象はごく限られたものであり,そのような研究から報告されるデータは,エビデンスとしては強いかもしれませんが,実際に目の前でお会いするクライアントさんは,それぞれ非常に個別的な存在であり,まずは目の前に生身で存在するクライアントさんを,CBT的な視点から全体的に理解し(すなわち,全体像をしっかりとアセスメントする),そのアセスメント結果に基づいてどのような技法を適用するか,当のクライアントさんと相談しながら計画を立てていくことのほうが,確率論的な手法によって報告されているエビデンスを適用することより重要だと思うからです。

  とはいえ,今はクライアントさん自身が,エビデンスを求めます。もうちょっと正確に書くと,「エビデンスに基づく心理臨床サービスを求めるクライアントさんが増えている」ということになりましょうか。そしてそのようなニーズはもっともなことだと思います。仮に私が何らかの病気にかかって治療を受けるとするならば,やはりエビデンスを知って参考にしたいと思うに違いありませんから。が,逆に今自分が臨床家として,世界中で量産されている文献,およびその文献を検索するシステムを駆使する力が自分にあるかと問われたら,「ありません。すみません」と謝るしかありません。現場の臨床活動によって日々の糧を得ている人が,そのような時間とエネルギーとシステムを持つことは,相当に困難だと思います(ちょっと,言い訳っぽい?)。

  ではどうすればよいのかといえば,第一の代替案としては,やはり第一線で活躍するエキスパートがいるところに出かけていくことだと思います(CBTの場合,エキスパートはエビデンス情報を豊富に持っていたり,エキスパート自身がエビデンスをつくる側におられることが普通ですので,エビデンスとエキスパートは対立概念になりません)。具体的には学会や研究会やワークショップということになりましょうか。私ができるだけ時間を割いて専門分野の学会や研究会に出かけていくのは,その時々のテーマに興味があるというのもありますが,やはりエキスパートが入手している生の情報や,それに対するエキスパート個人の率直な考えを直接聞きたい,という動機が大きいです。エキスパートによる有益な情報や考えをひとつでも聞くことができれば,それは明日からの臨床に,それこそエビデンスとして活かすことができます。昨年12月の日本認知療法学会に参加した際も,本当の意味でのエキスパートが多数参加する学会の役割と効用について,しみじみと実感することができました。

  というわけで,エビデンス・ベーストを目指す臨床家の皆さんは,データベースから入手するエビデンスも大事ですが,そのような機会がなかなか持てない場合,学会や研究会やワークショップのなかでも,特にその道のエキスパートと直接対話できそうな機会をみつけて,研鑽を積んでいきましょう。

またCBTを求めるクライアントさんには,そのような努力をたゆまず継続しているセラピストを見つけていただきたいと思います。どうやって見つけるかといえば,上記のような研鑽を積んでいるか否かを,直接セラピストに尋ねればよいのだと思います。そのような質問はユーザー側が当然してよい質問ですから,遠慮なく尋ねればよいのです。なぜこのように書くのかといいますと,「認知行動療法が出来ます!」と自己申告しているセラピストが最近急増しているようで,このような現状を少々危惧しているからです。きちんとCBTを実施できる人とできない人との差は,上記のような努力をしている人としていない人との差でもあるのではないかと思いますので(それだけじゃないとは思いますが),そのことが,ユーザー側のセラピスト選択のひとつの「エビデンス」になるのではないかと私は考えています。

●今日のまとめの一言: EBMならぬエビデンスに基づく臨床心理学を現場の臨床家が実践するには,現場や研究において第一線で活躍するエキスパートと継続的に顔を合わせる機会をもつことである。

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2006年2月28日 (火)

【認知療法・認知行動療法】コラムその12:モラルハラスメントにCBTはどう役立つことができるか?

  先週の金曜日,東大で開催された「職場のハラスメントをなくすために」という国際シンポジウムを聴きに行きました。主催者の一人は,過労自殺裁判で有名な川人博弁護士であり,第1部の講演者は,『モラルハラスメントが人も会社もダメにする』(紀伊国屋書店,2003年)の著者であるマリー=フランス・イルゴイエンヌ氏(フランス人の精神科医)でした。イルゴイエンヌ氏は,ある種の嫌がらせ(ハラスメント)に「モラルハラスメント」と命名し,多角度的にこの問題について論じているパイオニアでもあります。

  私は認知行動療法(CBT)を専門としておりますが,それと関連して,組織におけるハラスメントとその予防や解決についても大変興味を持っており(ボチボチ研究も始めてます),このシンポジウムは前から非常に楽しみにしてました。雨の中,他の仕事をほっぽりだして駆けつけましたが,行ってよかったです。

  主な収穫は2つです。

①私がボチボチ仲間と研究を始めている「職場における自己愛性パーソナリティ傾向をもつ上司によって苦しめられる部下」という現象が,イルゴイエンヌ氏の定義するモラルハラスメントの一部と見なせることがわかったこと。

②特に欧米諸国で整備されつつあるモラルハラスメントに関する法律の成立過程がよく理解できたこと。

  ①については本記事では省略します。②については,こういうことでした。まずイルゴイエンヌ氏のような現場の臨床家が,被害者の診察を続けるうちにモラルハラスメントという現象に気づき,それに名前(まさに「モラルハラスメント」という名前をです)をつけ,世間に問いました。するとモラルハラスメントの被害者たちが,「自分が体験したことはまさにモラルハラスメントだったのだ」と気づき,被害者団体を作ったそうなのです。被害者団体は次第に力を持ち,モラルハラスメントを法制化して加害者を取り締まるよう,政治に働きかけました。その力がだんだん増大し,最終的には罰則つきの法律が制定されました。

  イルゴイエンヌ氏は,自分のしていることがモラルハラスメントであると気づけないような人は,結局法律で罰するしかない,とおっしゃっていました。それは事実だと思います(モラルハラスメントだと気づけるような人は,そういうことはそもそもしないでしょうから)。とすると,やはり法律を作っていくという現実的なパワーをどう形成するか,という非常に現実的な問いが必要になると思います。

CBTはこういう視点をともすれば忘れがちです。が,個人の認知や行動に焦点を当てると同時に,苦しんでいる人の環境的ストレッサーそのものに焦点を当てるという視点を,常に保つよう意識しつづける必要があるかと思います。「認知の歪み」を修正することも時には必要かもしれませんが(個人的には「認知の歪み」という言葉は好みませんし,使いません),その前に,その人はどのような環境で,どのような他者とのかかわりで,どのようにその認知が生じたのか,ということをまず検討するべきだと思うのです。

  最近とくに強くそのように感じます。そう思うと,古典的な行動科学の概念である「刺激-反応」理論が,やけに新鮮に思われてくるから不思議です。

●今日のまとめの一言: CBTの基本モデルの出発点は,あくまでも「環境(状況,社会的関係など)」である。苦しんでいる個人の認知や行動の変容に焦点を当てる前に,苦しんでいる個人を取り巻く環境的ストレッサーに,まず目を向ける必要がある。

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2006年2月 3日 (金)

【認知療法・認知行動療法】コラムその11:対話によって行われる認知の再構成

  新年に入り,「備忘録的に当ブログを使うということで,更新頑張ります」などと書きましたが,全然滞ってます(笑)。しかし私がブログを更新しないからといって,誰かに迷惑をかけるわけではないので,こういうときは「なかったことにする」というコーピングを用いて,ブログそのものの存在を「なかったことに」していたのでした。「やってもやらなくても誰にも迷惑をかけない」事象が滞っているとき,この「なかったことにする」というコーピングは強力です。類似のコーピングとして,部屋の片隅にたまっている埃の山を「見なかったことにする」というのがあります(笑)。

  さて,更新が滞っている理由の一つに,ある翻訳の仕事が進まずに,毎晩苦しんでいるというのがあります。こちらはさすがに「なかったことにする」わけにはいかないので,進まないながらも毎晩帰宅してから寝る直前まで頑張るのですが,おそろしいほど進まない。その「おそろしいほど翻訳の仕事が進まない」という状況に対して,さまざまなネガティブな自動思考が生じるのです。

  それを超シンプルな認知再構成法の図式に当てはめるとこうなります。

【状況】おそろしいほど,翻訳の仕事が進まない

【自動思考】「英語が得意なわけでもないのに,翻訳の仕事なんか引き受けた自分が馬鹿だった」「なんでこんなに遅々として進まないのだろう。よほど私はこの仕事が向いていないに違いない」

【気分】憂うつ,自己嫌悪

【行動】ぐずぐずしながらも,何とか作業を続ける。「もうやりたくない!」と駄々をこねる。

  というわけで,この数ヶ月間,苦しみながら亀の歩みよりももっとのろのろと仕事を続けてきていたのですが,先日,私が非常に尊敬しているCBTの大先生と,ある食事会で隣り合わせに座る機会がありました。その先生(仮にA先生としておきます)が,本来お好きなお酒をあまり召し上がらないので,「どうしたのですか?」とお聞きしたところ,「最近,翻訳の仕事に苦しんでおり,先日とうとう消化器の検査を受けた」とおっしゃるのです。その後,“翻訳の苦しみ”についてA先生と大いに盛り上がったのですが,A先生とこの話をした後,私の認知は劇的に変わりました。

【状況】おそろしいほど,翻訳の仕事が進まない

【新たな思考】「A先生だって胃に穴があくほどなんだから,翻訳仕事というのは大変なんだ」「A先生だってあんなに苦しむと言うのだから,私ごときがスイスイと翻訳を進められるわけではないのだ」「A先生だって何度もやり直しするというのだから,私ごときが何度もやり直しするといのは当然のことなんだ」

【気分】軽いあきらめ

【行動】ぐずぐずしながらも,何とか作業を続ける

  A先生と話をしたことで,翻訳に対する私の認知が自然発生的に再構成されたのです。「おそろしいほど仕事が進まない」という状況や,「ぐずぐずしながらも,何とか作業を続ける」という行動は,全く変わりありませんが,新たに再構成された認知のもとで,さほど憂うつ感や自己嫌悪を感じることなく,軽いあきらめ程度の気分で,毎晩作業ができるようになったのです。

  認知再構成法は,別名「コラム法」と呼ばれるぐらい,表などのツールを使って行うもの,と考えられておりますが,やはり基本は対話なのだと,今回の自分の体験を通して再確認しました。表を使ってシコシコと書き込んでいくのも,それはそれで効果的だったり,楽しかったりするときもありますが,やはり誰かと対話をするなかで,新たな認知が再構成されるという流れのほうが自然ですし,効果的だと思います。そもそもそれが多くの健康な方々が無意識的に実施している認知再構成法だと思うのです。

●今日のまとめの一言: ツールを使ってシコシコと作業するだけが認知再構成法ではない。人と対話する中で,おのずと認知が再構成されるような流れが自然だし,効果的である。

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2006年1月13日 (金)

【認知療法・認知行動療法】コラムその10:モデルとして機能するセラピストだといいんだけど・・・

  前回に引き続き,スポーツクラブのネタを。

  私はエアロビクスのレッスンに出るのが大好きなんですが,インストラクターにも様々な人がおられまして,いろいろと考えさせられることがあります。

  よく感じるのは,「『こうなりたい!』と思わせてくれるようなインストラクターがいいな」ということです。動き(踊り)の組み立て,キュー(手がかり/プロンプト)の出し方,1回のレッスンの構成といった技術的な上手い下手はもちろん重要ですが,インストラクター自身の魅力といいますか,インストラクターが発するエネルギーといいますが,うまく言えないのですが,とにかく,「素敵だな。この人のレッスンに出ていると,この人みたいになれるのかな」と思わせてくれるようなインストラクターは魅力的です。(「この人みたいになろう」と本気で追求するということではなく,「この人が体現しているようなあり方を,私も自分の領域で実現したい」と思わせてくれる,ということです。うまく表現できないけれど)

  逆の例を出せば,エアロビクスのインストラクターにも,インストラクターという仕事や我々参加者をなめてかかっているような人がたまにいますし,あるいは見るからに活力のない不健康そうな人がたまにいて,そういう人のレッスンって本当に説得力に欠けるのです。そういう人のレッスンに出ると,むしろ心身のエネルギーが奪われるというか,ダレてしまいそうな気がして,かえってストレスが溜まったりします。

  我々の仕事であるセラピーも似たようなものだと思います。セラピーをする張本人(セラピスト)が,見るからに不健康だったり不機嫌だったりストレスにやられているようであったりするのは,やはりクライアントさんに対して説得力に欠けると思うのです。まあそれはエアロビクスやサイコセラピーに関わらず,「計算ができなさそうな算盤の先生」「歩き方がおかしいウォーキングの先生」「電車が大嫌いなように思われる電車の運転士」「動物を憎んでいそうな動物園の職員」・・・というように,考え出せばいくらでも例が挙げられそうですが。

  ぐちゃぐちゃ書きましたが言いたいことは,サイコセラピストは,なかでも特に「セルフマネジメントを重視するCBTのセラピスト」は,やはりセルフマネジメントをしっかりやって,「ああ,CBTを実践すると,この程度には元気に生きられるんだなあ」とクライアントさんに思ってもらえるようなモデルであるべき,もとい,少なくとも私はそのようなモデルとして機能したいと思います。

  ただ,あまり完璧なモデルである必要はないと思います(どっちみち,私には無理ですが)。「誰だって生きていればいろいろあって大変だけど,自分でちょっと工夫すれば,何とか,そこそこ,ほどほどに,ぶっ倒れない程度には,自分の心身の状態を保てるんだな」ということを,ある程度の説得力をもって示せるようなモデルであるぐらいがちょうどいいのではないかと思います。また,CBTの考え方や技法を使って,その程度には自分のコンディションを保っていければいいなあ,とCBTのセラピストとしては考えています。

  以上の話は実は「セラピストの自己開示」にも関わってくることだと考えています。それについてはそれなりに書きたいことがありますので,また後日(例によっていつになるかは不明・・・笑),書いてみたいと考えております。

●今日のまとめの一言: CBTのセラピストは,ほどほどに心理的マネジメントが上手な“モデル”として機能するのが理想的!

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2006年1月 9日 (月)

【認知療法・認知行動療法】コラムその9:骨盤を立てる!肋骨を絞る!

  正月休みの間に,久々にスポーツクラブに行き,普段は参加したことのないプログラムにいくつか参加してみました。そのうちの一つに“マットコア”というレッスンがありまして,これは身体のコア(中心部,深遠部)を引き締めるためのレッスンで,具体的に言うと,マットに横になって,横隔膜を使った腹式呼吸に合わせて腹筋の深部をギリギリと締め上げるために,ゆったりとした動きを繰り返す,というものでした。

  初体験のレッスンはどれも新鮮で楽しいものですが,今回参加したレッスンは,インストラクターの教示が非常にわかりやすく,リラックスとはどういうことか,ということを改めて認識させてもらいました。

  もともと私は身体に興味があり,認知行動療法(CBT)でもリラクセーション法を多用することから,リラクセーションに関するトレーニングは,様々なワークショップに参加するなどして積んできてはいるつもりです。が,こうやって新たなレッスンに参加するたびに,また新たな気づきが得られ,とても嬉しいものです。今回のマットコアのレッスンで一番面白かったのは,「骨盤を立てる」「肋骨を絞る」というワークでした。寝そべっていても,マットに胡坐をかいていても,とにかく骨盤をまっすぐに立て,その上で肋骨を絞るように横隔膜近辺の筋肉を内側に収縮させることで,「身体が立っている」という感じをしっかりと得られます。すると特にリラクセーションを意識しなくても,身体の他の部分,特に肩や腕や背中のあたりが気持ちよく脱力するのです。

  リラクセーションを学び,臨床で実践し始めてしばらくして,私が一番疑問を抱いたのは,「“リラックス=脱力”といえども,身体そのものが“しっかり”していなくては,脱力できないのではないか」ということでした。さらにクライアントさんと腹式呼吸法や筋弛緩法を一緒に練習しているうちに,もともとの身体がしっかりしている人は脱力が上手ですが,そうでない人はなかなか上手に力を抜けないことに気づきました。それは自分自身の身体のことを振り返ってみてもそう思います。運動をさぼっていて,たるんだ身体をしているときは,リラクセーションもへたくそだったように思われます。体幹部のトレーニングを再開し,体をしっかりと縦に立てることが再び意識的にできるようになった後のほうが,上手にリラックスできるようになったように思います。

  というわけで,リラクセーション法をより効果的に練習するために,脱力の前に“体幹部をしっかりと立てる”ことに興味を抱くようになってから,すでに何年も経っているのですが,今回,マットコアのインストラクターに,実習と共に言葉で「骨盤を立てる」「肋骨を絞る」という表現を教わり,さらに一つ,何かをつかめたような気がしました。

  といっても「つかめたような気がする」という程度ですので,今後まずは自分の身体を使って,「骨盤を立てる」「肋骨を絞る」ということがどういうことなのか,どのようにすればそれがうまくできるのか,という点を,日々練習してみたいと思います。その練習によってさらに何かをつかみ,CBTにおいてクライアントさんとリラクセーション法を一緒に練習する際に,より効果的なものを還元できるといいなと思います。

  ちなみに「身体をしっかりと縦に立てる」というのは,臨床動作法における知見でもあると思います。が,いかんせん動作法については,私自身あまりきちんと勉強しておらず,できれば一度,みっちりとトレーニングを受けてみたいとも考えております。

●今日のまとめの一言: コアな部分をしっかりさせてこそ,人はリラックスすることができる(のではないか)。

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2005年7月26日 (火)

【認知療法・認知行動療法】コラムその8:当事者に教えてもらうことが不可欠

  私はずっと思春期や大人を対象とした臨床をやってきており,また精神科や企業に勤めていたせいで,子どもや発達障害の臨床には詳しくありませんし,ほとんど経験もありません。が,最近,CBTが子どもや発達障害の臨床にも活用可能で,しかも効果的であるということが,ちらほら言われるようになってきており,また,アスペルガー症候群と思しき大人を対象としたCBTのケースに関与することが最近何度かあり,発達障害についてきちんと勉強しなくては,と思い始めました。そこで専門家が書いた教科書をいくつか読んでみました。どれもそれなりに勉強になったのですが,最近,『自閉症だったわたしへ』(ドナ・ウィリアムズ著,河野万里子訳,新潮文庫)を読み,大変勉強になると同時に,深く感動しました(「もっと早く読んでおけばよかった」と後悔&反省)。そして改めて,CBTにおいて当事者から教えてもらうことがいかに重要か」ということについて考えましたので,今日はその辺をちょっと書いてみます。

●ドナ・ウィリアムズ著 『自閉症だったわたしへ』(新潮文庫)より

 本書はそのタイトルの通り,自閉症の当事者が大人になってから,自分の生活歴を振り返って手記としてまとめたものです。著者は自閉症のなかでも,知能に欠損がなく,しかも言語能力にも欠損がないというタイプの人で,だからこそ自分の体験を,手記という形で自力で表現することができたのだと思われます。

 私も日々の面接を行うなかでクライアントさんの話を聞きながら,「当事者だからこそ,これほどまでにビビッドに自分の体験を表現できるのだなあ」と感動することがときどきありますが,まさにこの本の著者は,当事者しか語りえない自閉症の世界を,ビビッドに伝えてくれています。そういう意味では,どのページを開いても,「当事者性」に満ち満ちており,自閉症についてにわか勉強を始めた私にとっては全てが非常に新鮮で,わくわくするような気持ちで本書を読み終えました。

 昔,精神科デイケアで,統合失調症の患者さんとおしゃべりをし始めたときの,あのワクワク感を思い出しました。「ワクワク感」などと書くと,失礼だと怒られるかもしれませんが,自分とは違う枠組みで世界や他者を捉えることのできる人のリアルな話を聞くのは,やはり「ワクワクする」としか言いようがありません。病気か病気でないかとか,障害者か健常者かということではなく,自分とは違う世界観があるということを教えてもらうことは,何か目の前の風景がパーッと開けるような,非常に新鮮な気がするのです。

●当事者に教えてもらうことから始まる

CBT

 といった話はひとまず置いておき,臨床的な話に戻りますが,先日の「べてるの家」の記事にも書いたとおり,「当事者が自分について語るのをよりよく聴く」というのが,臨床の基本であることは間違いないと思います。そして真に効果的であることを目指すCBT(認知行動療法)は,まず最初に,当事者のものの見方,考え方,感じ方,振る舞い方,世界との付き合い方について,当事者の視点から教えていただくことを重視するものだと思います。それがCBTにおける,いわゆる“アセスメント”,“ケース・フォーミュレーション”の真髄だと思うのです。

 したがってCBTの実践家は,特にケースの初期段階では,まず当事者(クライアントさん)が自分の体験を,まさに自分の体験として上手に語れるよう,援助しなければなりません。そのようなコミュニケーションの場を提供しなければなりません。それなくしては,どんな強力な技法であれ,大した効果はないでしょう。

 といったCBTの原則は,「べてるの家」を知ることで統合失調症の人との対話においても適用できることを知り,さらに今回本書を読むことで,自閉症の人との対話においても適用できることを知り,とても嬉しくなってしまいました。そして著者は本書を通じて,自分の自閉症体験を,この上なくリアルに私たちに教えてくれているのです。こんなにありがたいことはありません。

 引用したい箇所は多々ありますが,控えめにしておくとして,特に私は本書の最後に,著者が「まとめ」として書いてくれた箇所に感銘を受けました。自閉症としての自分の言動の意味や目的について書いてある箇所です。

 たとえば・・・

著者の「笑い」は緊張や恐怖,不安などを解法するための手段で,感情表出ではないとのことです。社会に受け入れやすい形での恐怖の表現だという。むしろ「手をたたくこと」が喜びの表現であることが多かったとのこと。

 そう教えてもらわなければ,私のような単純な人間は,「笑い」にそのような意味があるだなんて,一生わからなかったかもしれません。

 たとえば・・・

  「わたしに物を受け取らせるには,ありがとうなどの返事や反応をいっさい期待せずに,ただその物を,わたしの近くに置いてくださればいい。何らかの反応を期待されているとわかると,その義務と責任ばかりに気を取られて,品物の方には気持ちがいかなくなってしまうからだ。」(p.472

  「またわたしに話を聞かせるには,わたしのことか,わたしに似た人のことを,大きな声でひとりごとを言うように話してくださればいい。するとわたしは,そのようなことなら自分にも話せることがある,という気持ちになってくる。この時接触は間接的な方がいいわけで,たとえば話しながら窓の外などを眺めていてくだされば,申し分ない。」(p.472

  「何より特徴的なのは,わたしは愛されることをそれほど必要としていたわけではなかった,ということだろう。(略)わたし自身の場合も,愛や親切や,親愛の情や共感は,いつも最大の恐怖の源だった。それらを感じ,自分にはふさわしくないと思いながらもなんとか人の努力に添おうと頑張っていると,フラストレーションはやがて自分など不適当だという思いに変わり,ついには絶望となってしまう。同情も,何にもなりはしない。おとぎ話とは違い,愛は必ずつき返されると思っておいていただきたい。それも,唾を吐きかけられて。しかし愛ではなく,いつも心に留めて気づかうことならば大丈夫なのだ。」(p.475476

 心理臨床の世界で当たり前のように言われている「共感的理解」,「無条件の積極的関心」,「クライアントに寄り添うこと」などといったことについて,それのどこがどこまで当たり前なのか,突きつけてくるような当事者による発言だと思います。そしてそのような当事者の声に耳を傾けなければ,専門家は援助どころか,ひとりよがりな間違いを繰り返し,むしろ当事者に迷惑をかけてしまう存在になってしまうのだと思います(自戒をこめて,あえてこんなふうに書いておきます)。本書にも,専門家に対する著者なりの「抗議」が多々見受けられました。そしてどれも私にとって耳の痛いものでした。

 さらに引用・・・

  「長々と書いてきたが,とにかくわたしは,わたしと同じような人たちを助けるために奮闘している人々に向かい,皆さんの努力は絶対にむだではない,と言いたかったのだ。間接的,客観的な方法で応えることと,無関心であることとは,まったく別のことなのである。」(p.477

 当事者の物の見方,考え方,感じ方,振る舞い方などをまとめてくれた上で,援助者に対してこんなふうにしめくくってくれている,この著者の柔軟性に感じ入るばかりです。それにしても「間接的,客観的な方法で応えること」というのは,CBTのエッセンスであると私は考えます。それが「CBTは冷たい。共感的でない」という批判を呼ぶのでしょうが,「直接的でないアプローチ,客観的なアプローチが,むしろこのように求められるのだ」,ということを当事者に教えていただけることで,日々の臨床で,CBTがたとえばボーダーラインのクライアントさんになぜか効果的に機能することの説明がつくようにも思えます。

 ・・・だんだんダラダラと長くなってきましたが,言いたいことはただ一つ,とにかく他者を援助しようという大それたことを目指すのであれば,当事者である他者に,自身についてとにかく教えていただくしかないのだ,ということです。その「語り」を引き出すための対話の場を構築するのが,臨床家の腕の見せ所であり,各療法の理論やモデルや技法の本質でもあるのだと思います。そして一見「冷たく,客観的」なCBTは,むしろそのための方法論をたくさん持っているのではないかと私は考えています。

●今日のまとめの一言: どんな症状,障害であれ,当事者に教えてもらうことから援助や治療は始まる。CBTは「当事者にいかに生き生きとした情報を教えてもらえばよいか」という視点から,クライアントさんの語りを引き出していくことから,アセスメントを進めていく。

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2005年7月 7日 (木)

【認知療法・認知行動療法】コラムその7:“浦河べてるの家”について ③

  今日で「べてる」ネタをいったんお終いにします。しつこいようですが,詳細は 『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家   医学書院)を参照してください。

●「ネガティブな自動思考」は「お客さん」として付き合う

 先日私は,自動思考に「歪み」というレッテルを貼ることへの違和感について書きましたが,それは自動思考が「自分の(なかに生じる)思考」という前提があっての話でした。べてるの外在化能力は,そういう私の違和感など笑い飛ばすようなものでした。べてるでは,ネガティブな自動思考を「お客さん」と呼ぶのだそうです。

「お客さん」!!! 自分に生じる思考ではなく,外からやってくる「客」なのです。お客さんはお客さんだからこそ「ごめんください」と勝手にやって来るけれども,そのお客さんにどう対応するかは,「この私」が決められるのです。そしてどう対応するか決めるためには,そのお客さんがどういう客か,見極めなければなりません。見極めたうえで,そのお客さんとどう付き合うか,すなわち今後も来てほしいから丁重にもてなすのか,たとえお客といえどもお付き合いはまっぴらだから丁重にお引取り願うのか,むかつくお客だから喧嘩を売るのか,面倒くさいお客だから何を言われても無視するのか・・・etcについて,検討するのです。そして実際にそのお客さんとの付き合い方をあれこれ試しながら,自分にとって苦痛にならない付き合い方を見つけ,身につけていくのです。このようなプロセスは,CBTにおける強力な技法である“認知再構成法”に他なりません。

  以前私はこのブログのコラムで,中村うさぎさんの「ツッコミ小人」を自動思考に対するナイスなネーミングであると絶賛しました。中村さんの文章によれば,ツッコミ小人はあくまで自分の脳内に発生する小人らしいです。中村さんほどのパワーの持ち主なら小人のツッコミにいろいろと対応できるかもしれませんが,気の弱い,または気の小さな,あるいは気の優しい凡人は,さらに外在化を極めた「お客さん」として自動思考をとらえると,より対応しやすくなるような気がします。自動思考を「お客さん」と名づけるという営為に,まさに病気と共に生きるべてるの人たちの知恵が凝縮されているように思います。

  ちなみにべてるの人たちは,幻聴も呼び捨てにはしません。「幻聴さん」と呼び,丁重にもてなしたり,お引取り願ったりしています。そしてお客さんと同様に,幻聴さんとの付き合い方も,べてるの当事者研究の一大テーマなのです。

●病名も自分でつけるべてるの人たち

  当事者研究(自己研究)を通じて,べてるの人は,自分の病気や症状や問題や悩みをセルフアセスメントします。その結果,自分に合った病名を自分でつけるようになります。たとえば同じ統合失調症でも,「依存系爆発型統合失調症」,「統合失調症・体感幻覚暴走型」,「統合“質”調症・難治性月末金欠型」(“質”とは“質屋”の“質”です),「逃亡失調症」・・・などなどです。ちなみに最後の「逃亡失調症」はべてるの施設長の荻野さんの自己病名です。さまざまな理由により,気がつくと職場を放棄して「逃亡」しちゃうからです(逃亡先が自宅だったりするところが,お茶目です)。私が見学に行ったときは,幸いにも逃亡中ではなく,施設長としてべてるの説明や案内をしてくれました。

●山本賀代さんの自己研究

『べてるの家の「当事者研究」』(医学書院)から,お客さん(すなわち自動思考)についての考察を紹介します。当事者の一人である山本賀代さんの「研究論文」からの引用です。ちなみに山本さんの自己病名は「依存系自分のコントロール障害」だそうです。

別居後,身体上は平和を手に入れたわたしには,悪い<お客さん>との本格的なつきあいが待っていた。下野(注:元同棲相手)と同居していたときの<お客さん>は,すべて彼を悪者にしてわたしにケンカを売らせ,生活を破綻に導いていた。下野という爆発対象を失った<お客さん>は,以前そうだったようにわたしに矛先を向けてきたのだ。

わたしの<お客さん>のメインテーマは,あらゆる手段を使ってわたしを“死”へ導こうとすることだ。わたしの<お客さん>は過去の傷ついた経験から来ていて,その傷ついた経験に非現実的な恐怖感や不安感を加えることによって,わたしを現実の地道な苦労から遠ざけ,わたしの行動を制限させる。しかし一方で,それによって,実際の人間関係でこれ以上深く傷つくことからわたしを守っているのかもしれないと考えてきた。

だからこそわたしは,悪い<お客さん>にお茶を出し,頭の中に長居させていたのだが,ソーシャルワーカーと数人の仲間と始めた「日本語会話教室」という試みが,<お客さん>とのつきあい方を勉強するのにけっこう有効だった。日本語会話教室で学ぶうちに<お客さん>を一方引いて見て,自分が取り入れたい<お客さん>なのかどうかなど考えることが多少はできるようになった。

「日本語会話教室」とはおもしろいネーミングをしたなぁと思う。これは,「自分の言葉を取り戻そう」という発想から生まれたもので,『自分を愛する十日間トレーニング』という本を参考にしている。具体的には,小グループで週に一度一時間半ほどの時間で,ソーシャルワーカーの助けを借りながら,この一週間の<お客さん>状況を話したり,本を参考に自分に当てはめてロールプレイをする。

(略)悪い<お客さん>にジャックされて自分を責めているときに,大事な友達を励ましてあげるように自分に言ってあげるロールプレイはよかった。みんな,自分に対してはうんと辛口なのだが,友達に対してなら優しくなれるものだ。

(略)<お客さん>とのつきあい方で肝心なのは,やはり誰かにその<お客さん>の話ができることだ。一人で抱え込むと<お客さん>に完全にジャックされる確率が高まる。そしてできるだけ多くの人とかかわりを持つことで,<お客さん>もバラエティ豊かになり,つきあいやすくなることがわかった。

(『べてるの家の「当事者研究」』 pp.174-177

  認知再構成法のグループ学習をべてるでは「日本語会話教室」と呼んでいるというのも,素敵です。たしかに認知再構成法は,自分の中で起きている会話を,自分にとって苦しくないものに置き換えていこうという技法ですから,この「日本語会話教室」といタイトルは妥当だと思います。それにしてもべてるの人たちによる様々なネーミングは,極めてユニークで楽しいものが多いです。「認知再構成法のグループ学習やろうよ」と言われるより,「ちょっと日本語会話教室行かない?」と言われるほうが,よほどそそられますよね。

  以上,3回に分けて,CBTの視点から“浦河べてるの家”について書いてきました。べてるには年間数千人もの見学者が訪れるそうです。また「自分もべてるで暮らしたい」とやって来る当事者の方も多数おられるそうです。が,当然べてる及び浦河町のキャパシティには限りがあり,べてるの方々は,「皆がべてるに来るのではなく,それぞれの地域で“べてる的”な活動を実践してほしい」とおっしゃっています。私もその通りだと思います。しかし,一体どうやって,皆がそれぞれ自分の住む場所で“べてる的な活動”を実践すればよいのでしょう? ここに私はCBTの視点が貢献できる可能性があるのではないかと考えています。CBTの視点を用いて,べてるの家の活動を,ある程度一般化されたモデルとして提示するのです。時間はかかると思いますが,“CBTの視点を用いたべてるの家の活動のモデル化“ということを,自分のテーマとして追求していこうと私は考えています。

●今日のまとめの一言: 扱いに困るようなネガティブな自動思考は,「お客さん」とみなし,付き合い方を見つけていくのがよい。・・・という視点から,べてるの家の人たちは「日本語会話教室」というグループ学習を続けている。そして,このようなべてるの活動を,CBTの視点から一般化・モデル化することが,役に立つかもしれない。

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2005年7月 4日 (月)

【認知療法・認知行動療法】コラムその6:“浦河べてるの家”について ②

 というわけで,“べてるの家”について,続きです。

●「べてる祭り」にも行ってみた

 2003年の夏,べてるの日常を垣間見させてもらった私は,さらにべてるの活動に興味が沸いてきました。その根底には,べてるの活動とCBTの豊かさを,何とか自分なりにもっと理解したい,自分のCBTの実践に役立てたい,ひいてはべてるを引き合いにCBTの豊かさを人に伝えたい,という私なりの(自分勝手な?)動機があるのですが。

 そこで2004年の6月には,べてるの総会(べてる祭り)にも行ってみました。この総会は年に1回開催され,全国から当事者や対人援助を専門とするボランティアや専門家が集まって,べてるの活動や全国の当事者活動について発表したり,懇親したりするものです。ちなみに昨年,べてるの総会に行こうと思い立って,そのかなり前に浦河のホテルを取ろうとしたら,どこも満室でびっくりした記憶があります。べてるの活動がその土地の商業活動にしっかり貢献しているということが,このことでよくわかりました。(結局あるビジネスホテルに「どんな部屋でもいいから」と泣きついて,1室提供してもらったので,なんとか宿泊場所は確保できました)

 べてる祭り・・・堪能しました! 当事者研究についての発表を聞くのが,私がべてる祭りに行った主目的でしたが,種々の発表や出し物全てがとても面白かったです。

 おそらくこの総会(べてる祭り)のメインイベントは,「幻覚&妄想大賞」でしょう。幻覚や妄想を体験する人は,それをひた隠しにすることが多いのですが,浦河では,それを外在化し,いかに自分の幻覚&妄想がすさまじいかということを語ることで表彰までされてしまうのです。これは究極の“リフレーミング”ではないでしょうか。(残念ながら私は帰りの飛行機の都合で,幻覚&妄想大賞の表彰式を見届けることなく,退出せざるを得なかったのですが)

●当事者研究の素晴らしさ

 さて,その「当事者研究」です。

 先日お書きした通り,私は林園子さんとべてるショップでおしゃべりした際,べてるの「自己研究」=「当事者研究」について教えてもらいました。そしてCBT的な視点から,この当事者研究にいたく興味を抱いたのです。

 べてるの家では,毎日のようにミーティングが開かれています。その一つに,同じような問題を抱えている人たちが,自分たちの問題を「自己研究」するというものがあり,そこでメンバーは自分や仲間の問題について「研究」するのです。

 その当事者研究のプロセスは,以前私が「新世代CBT」とか「第二世代CBT」とここで書いたCBTのアセスメント(ケース・フォーミュレーション)のプロセスと同様のものです。

 当事者研究は以下の手順で進められます。

自分や自分を取り巻く状況がうまくいかないのは,一体どういうことなのか?という問いを立てる

現実場面でどんなことが起きているかをモニターし,それを絵や図に描いていく。すなわち悪循環を外在化する

 モニターや外在化をするなかで,「うまくいかないとき」のパターンに気づく。悪循環を維持させているポイントに気づく

 さまざまな気づきから学んだことをさらに外在化し,それを今後に生かす

 たとえば林園子さんは,自分が幻聴に襲われたり,何かについて不安になって他人に何度も確認してしまったりすることについて自己研究しました。その結果,自分がどういうときにそうなってしまうのかに気づき,またどうすればそういう自分を自分で救い出せるかを知り,それらを循環図として外在化しました。またそのことを仲間と共有しました。その結果,問題が解消するわけではないのですが,問題が発生したとき,自分がどういう循環に巻き込まれているのか自覚することができますし,仲間も同じ循環図を頭に浮かべて林さんの問題を同じように理解することができます。すると林さん本人,あるいは周りの人が,何らかの対処法に気づき,何とか悪循環から脱け出すことができるのです。

たとえば林さんはお腹がすいているとき,自分が非常にくどくなってしまうことに気づき,それを仲間にも伝えました。その後林さんは,お気に入りのヨーグルトを冷蔵庫に予め用意し,くどくなってきたらヨーグルトを食べて自分を落ち着かせることもできるようになりました。しかしそうもできず,仲間に対してくどくなってしまったとき,誰かが「あ,林さん,きっとお腹がすいているんだ」と思って,お菓子をあげたり,カップラーメンを届けてあげたりすることで,やっぱり林さんは,くどさの悪循環から何とか脱け出すことができるようになったのです。

 林さんの当事者研究で圧巻なのは,自分のくどさを中心とした問題に「くどうくどき」と名前をつけ,キャラクター化したことでしょう。彼女は実際に「くどうくどき」君という人形を作り,それを身につけるようになりました。そして自分がくどくなった時にその人形を見て,「また,『くどうくどき』が悪さをしている」と気づき,対処法を考えることができるようになったのです。これって究極の外在化ではないでしょうか。(さらにすごいのは,「くどうくどき」人形や,林さんの「くどさの悪循環」と「くどさから脱け出す良循環」とすごろくにしたものを,販売するべてるですが・・・・私もすごろく買いました!)

  それにしても,やはり私は,“べてるの家”や“当事者研究”の魅力をここでうまく表現できません。できれば,『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家 著,医学書院)をお読みいただければ,と思います。読み物としても面白いですし,CBT的な視点から読むこともできますし,お勧めです。これまで私は当ブログで「ひとりCBT」を提唱してきましたが,べてるの当事者研究は,いわば「みんなCBT」なのだと,本書を読んで改めて思いました。

●「問題志向」への確信

 ところで私は,セラピー(とくにCBT)とは,“協同的な問題解決の過程”であると定義づけていますが,その際,「問題」を志向すると考えるべきか,「解決」を志向すると考えるべきか(「べき」と堅苦しく考える必要はないのでしょうが,理論や研究を考える際には,このような問いも必要だと思います),実は数年間,自問自答しつづけていました。

しかし,べてるの活動を知り,実際に見学に行くなどしてその実態を目の当たりにしたことで,私のこの自問自答には一応決着がつきました。やっぱり,まずは「問題」を志向するんです! ケースによっては戦略的に「解決」を志向するという見せ方もあるでしょうが,やはり基本は「問題」を志向し,志向しつづけるなかで,おのずと対処法や解決法が見えてくる,という流れが,セラピーとしては自然だし,むしろ効果的であるということを,改めて理屈として納得するに至りました。

つまり,「どうするんだ?」ではなく,「一体,どうなっちゃっているんだ?」という問いにこだわるのです。これがCBTでいうアセスメント(ケース・フォーミュレーション)ですし,べてるの家の当事者研究なのだと思います。

  と,ここまで書いていてふと思ったのですが,ダイエットも同じなあ,と。理論的には行動療法が根底にある「体重測るだけダイエット」というのがあります。闇雲に「○○ダイエット」(○○には,「りんご」とか「ゆで卵」とか「炭水化物抜き」とかが入る)をするんではなく,ただ毎日体重を測るだけの方法です。そしてやはりこれってそれなりに効果があるのです(あくまでも「それなりに」ですが)。つまり痩せたいがゆえに「○○ダイエット」を試みるのではなく,「いったいどうなってるの?」ということを,体重を毎日モニターすることで,むしろ体重が減らないメカニズム(すなわち悪循環)に自分で気づき,あえて「○○ダイエット」といった大それたことにチャレンジしなくても,日々,小さな工夫をすることによって,気づいたらそれなりに体重が減っていた!というやり方です。これがまさに「解決志向」ではなく,「問題志向」または「問題解決志向」なんだと思います。

 べてるの家の人たちも,「べてるは問題だらけ」だと言っています。そして「問題だらけでいいじゃないか」と。これは単なる開き直りではなく(開き直りでもいいのですが・・・開き直った時点で「問題」はすでに「問題ではない」とも言えるので),「問題だらけである現状を認めようよ」という出発点を示しているのだと思います。そしてやっぱり「問題だらけである現状を認めた」時点で,その現状に対する認知はすでに変化しているとも言えるのです。

 ・・・ぐだぐだ書いていますが,やはりべてるの活動を,私が端的に表現するのは難しいです。くどいようですが,『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家 著,医学書院)をお勧めします。(林園子さんの「くどうくどき」が乗り移ってきたか・・・???)

●今日のまとめの一言:“浦河べてるの家”の当事者研究は,究極の「ひとりCBT」ならぬ「みんなCBT」である。そしてべてるの家の当事者研究は,「問題志向」の重要性を示すものでもある。

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2005年6月30日 (木)

【認知療法・認知行動療法】コラムその5:“浦河べてるの家”について ①

●「べてるの家」の活動には,CBT実践のヒントが詰まっている

  前回,「問題解決法」について掲載すると予告しましたが,ちょっと予定を変えて,“浦河べてるの家”について,書いてみたいと思います。というのも,たまたま今日電車で『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家 著,医学書院)という本を読んでいたら,その「あとがき」で,べてるの家のメンバーの一人であった林園子さんが,昨年(2004115日)に亡くなっていたということを知ったからです(享年35)。

  私は“浦河べてるの家”という活動・コミュニティに,CBTの研究者・実践家として並々ならぬ関心を持っています。その経緯について今日は述べたいと思います。

  私が現場でCBTの実践を始めて,それなりの年月が経ちますが,CBTをやればやるほど実感されるのが,「テキストに書いてあるよりも,現場でのCBTはもっと豊かで役に立つ」ということです。テキストに書かれているCBTの理論やモデルやマニュアルはとてもスマートです。そしてその通りにCBTが進めば,なんて効率的かつ効果的なんだろう,というものでもあります。

  が,何でもそうですが,マニュアル通りに物事が進むなんてことは,現実にはあるはずもなく,また私がCBTを始めた当初はCBTのスーパーヴィジョンやワークショップなどを日本で受ける機会もほとんどなく,「どうすればいいんだろう」と壁にぶち当たるたびに,当事者であるクライアントさんと相談しながら,CBTを進めていくというやり方を取っていました。そしてそのようなやり方のおかげで,【クライアントさんとともに創り上げていくセラピー】というものを体得したように思います(と言っても,まだまだなんですが・・・泣)。また,CBTでの対話や実践を通じて,クライアントさんの自助力が回復したり向上したりすることを目の当たりにし,人間が本来的に持っている回復力や自助力に対する信頼感が,私自身のなかに育まれていったように思います。つまり決してスマートには進まない現場のCBTだからこそ,そこから得られる豊かな副効果のようなものが,多々あるのではないかと思うのです。

  しかしこういうことってCBTのテキストにはあんまり書かれていませんし,私も研究会や学会等でCBTについて発表することがそれなりにあるのですが,上記のような実感を伝えたいなと思いつつ,うまく伝えられないもどかしさをずっと抱えていました。

  また以前私は,精神科デイケアの運営に56年ほど携わっていたことがあり,CBTとは別に,“場”やコミュニティの持つ力というのを,デイケアで何度も目の当たりにしました。担当医師と担当カウンセラー(私)が何年も奮闘した事例が,クライアントさんがデイケアに通い始めるだけでいきなり展開することがよくあり,“人と人が関わる場”の持つ力のすごさを実感したのでした。(もちろん良いことばかりではなく,その力がネガティブな方向に働けば,むしろ大変なことになるわけですが,大変なことから皆で学ぶということも,それはそれで重要な体験だったように思います。)

と言っても,当時は「すごいな~」「へえ! こんなことが起きるんだ~」とひたすら感心していただけですが(笑)。さらに書いていて思いましたが,今でも大して変わりません。クライアントさんの起こす変化に対して,あるいはクライアントさんがいつまでも変化しないことに対して,「へぇぇぇぇ!」と感心しているだけのセラピストなのでした,私は・・・。

  ともあれ私は精神科での個人臨床(CBT)を通じて,CBTの豊かさ,人の自助力のすごさ,人と人が関わる場の持つ力,の3を学んだのですが,それをうまくまとめたり,伝えたりすることができずにいました。そんなとき新聞記事でたまたま,“べてるの家”について知ったのです。興味を持った私は,早速,べてるの家に関連する本を何冊か読んでみました。そして,私が学んだのに伝えられない上記の3点が,べてるの家の活動としてまさに集約されていることに,気づいたのでした。

●「べてるの家」のミーティングやSSTを見学してみた

  「これは絶対に浦河まで行って,実際の活動を見学しなければならない」と私は考え,念願かなって2003年の夏,23日で北海道の浦河町に滞在し,べてるの家の活動を見学することができました。授産施設でのこんぶの袋詰め作業,グループホームでの定例ミーティング,べてるの家が経営するショップ(「4丁目ぶらぶら座」というナイスな店名です),浦河赤十字病院でのデイケア活動,スタッフと当事者によるSST・・・などなどです。

  私の言語力では,到底そのときに受けた強い印象を説明しきれないのですが,「とにかくすごいことがこの浦河で起きている」ということは間違いない,と確信しました。と書くと,何か特別なことが行われているという印象を与えてしまいそうなのですが,そうではなく,上記CBTの豊かさ,人の自助力のすごさ,人と人が関わる場の持つ力,の3が,“べてるの家”の日常において,ごく当たり前のように実現されているという,それだけのことです。でも,そういう「それだけのこと」が逆に言うと,精神科医療やセラピーだけでなく,私たちの日常生活においても,実はなかなか実現されていない,ということなのだと思います。

  とくに当事者主体のSSTは素晴らしかったです。べてるの人たちは,SSTを「認知行動療法」であると認識して,実践しています。どこかで読んだのですが,SSTのパイオニアであるリバーマン博士も,一度浦河まで出向き,べてるのSSTを見学して大層感心したということですが,私は感心どころか,感動しまくっていました。これだけ生き生きとしたCBTの実践を見たことはありませんでしたし,また,そのような実践が,日々,なんでもないことのように行われている「べてる」という場を,ほんの少しの間でも体験させてもらったことで,やはり上記CBTの豊かさ,人の自助力のすごさ,人と人が関わる場の持つ力,の3に深く感じ入ったのでした。

  特に私は,自分が日々の臨床において小さく感動している“CBTの豊かさ”を,“べてるの家”が具現していると確信しました。そこでSSTだけでなく,べてるの家の様々な活動を,CBTの視点から何らかの形でまとめ,提示し,共有してみたい,と思うようになり,今でもそのように強く思っています。(残念ながら,未だに思っているだけで,行動に移していないんだが・・・)

  それにしても,べてるについて書こうとすると,どうしてもうまく書けない。何か書くと,何かがこぼれ落ちていく気がしてなりません。というわけで,興味を持たれた方は,べてるの家のホームページを参照してください。

http://www.tokeidai.co.jp/beterunoie/top.html

●林園子さんとのおしゃべり

  さて今回,いきなり“べてるの家”の記事を書くことにしたのは,冒頭に書いたとおり,メンバーであった林園子さんの訃報を知ったからです。2年前,私が「べてる」の見学に行き,べてるのショップをうろついていたときに,話し相手をしてくれたのが,ちょうどそのときに店番をしていた林さんでした。

  林さんは初対面の私に,ご自分がべてるの家のメンバーになるまでのいきさつを話してくれました。そして今,ご自分が取り組んでいるテーマ(当事者研究)について,お話ししてくれたのです。

  べてるの家の当事者研究については,次回書きますが,この話を聞いたときに,私が言語化できないままずっと感じ続けてきたCBTの豊かさの意味が,ようやくわかった気がしました。また自分に問い続けていた,“問題解決志向”と“解決志向”の違いは何か,ということについても,自分なりに答えを出すことができました。べてるの家を知って,私の実践するCBTも,前よりちょびっとは豊かになったように思いますし,クライアントさんのもつ力を理屈抜きでより信じることができるようになりました。

  さらに今では仲間と「べてるプロジェクト」なるものを勝手に立ち上げ,べてるの研究を始めようかという相談をしていたりもします。

  その発端は,やはりあの日,あのショップでの,林さんとのおしゃべりだったのだと思います。昨年,WCBCT(世界行動療法認知療法会議)という国際学会で,私は偶然林さんにお会いしました。(※べてるの人たちは,今や国際学会で講演をよくなさっているのです!) 林さんは私のことなど忘れていましたが,私は見学したときに自己研究について教えていただいたことのお礼を述べ,機会があったらまた浦河に出かけて林さんや他のメンバーさんに自己研究についてインタビューしたいと申し出ました。

  しかしそのような機会を作らないまま,林さんが亡くなっていたことを,今日私は知り,「悲しい」とかそういう感じではなく,とにかく「ああ!」と思いました(これがその時の唯一の自動思考です)。そして今これを書いていて感じるのは,2002年に浦河にたどり着き,2004年に急逝された林さんと,たまたまおしゃべりする機会を与えられたことに対する感謝の念です。林さんやべてるから得たことを,私が「べてる!」「べてる!」と大騒ぎするのではなく,自分の日常,すなわち自分が毎日実践している臨床において,静かに生かしていくのが,まず私がするべきことなのだと思います。

  が,せっかくここで「べてるの家」について書いたので,もう少しだけ,次回と次々回に書き足してみたいと思います。

●今日のまとめの一言:CBTの豊かさ,人の自助力のすごさ,人と人が関わる場の持つ力,の3点が「べてるの家」に集約されている。とも言えるが,その3点はごく当たり前のことだとも言える。(まとめになっていない,「まとめの一言」でした)

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2005年5月24日 (火)

【認知療法・認知行動療法】コラムその4:自動思考についてのナイスな説明

  CBT,とくにベックの認知療法における“認知再構成法”では,ストレスフルな場面において頭の中に浮かぶ自動思考を同定することを,まずはじめにやりますが,ではその自動思考とは何ぞや?というと,実は未だにきちんとした操作的定義がされておらず,テキストによってバラバラなことが書かれています。

最近も某マンモス学会が発行しているジャーナルに,珍しく認知療法に関する論文が出ていましたが,その論文における自動思考の定義は,「自動的に頭に浮かぶ否定的な思考のこと」という悲惨なものでした。この「否定的な」というのが曲者です。「否定的な思考」って,誰がどう決めることなんだ? さすがに現在のCBTのテキストには,このような定義が書かれることはありませんが,「じゃあ自動思考って何?」と聞かれたときに,それにきちんと回答できるだけの定義づけがなされていないというのが現状だと思います。

CBTにはエビデンスがある」と威張って言われますが(実はときどき私も威張ります),それは治療効果のことであって,CBTが用いているモデルや概念のエビデンス(実証性)って,実はまだまだ弱いのではないかと私は考えています。そして,CBTで用いられるモデルや概念の定義や説明にこそ,私は基礎心理学(とくに認知心理学,社会心理学,発達心理学)の成果を活用するべきだと思います。たとえば自動思考についてであれば,認知心理学における“自動処理”と“制御処理”といった概念から,もう少しマシな定義や説明が可能だと思うのだけどなあ。(そういう作業を私が自分でやればいいのですが,ついついこういったことは日常の臨床や原稿仕事に追われて,結局後回しになってしまうのです)

  さて,長い前フリでした。

  なぜいきなりこんな前フリかと言いますと,日本における精神科救急医療のパイオニアである,計見一雄氏の『統合失調症あるいは精神分裂病』(2004 講談社)を読み直していたら,これまで読んだなかでもっともリアルでもっともわかりやすい自動思考についての説明が書かれていてびっくり。(と言っても,計見氏が自動思考の定義づけのために,この文を書いたわけではありません。これは「主体」と「自己」について書かれてあった箇所からの引用です)

それから友だち。「今夜は自分ひとりを道連れにして,少し街を歩こう」なんていうのが,友だちですね。それから対話者。自分自身と語る,対話する。こんなのは,幻聴まであと一歩。なぜ幻聴なのかと言えば,「年中聞こえてきているのは,お前(主体)に話しかけてくる自分(自己)の声なんだよ」という話になるからです。

ついでにちょっと脱線すると,この「対話」というものがどういう時に,頭の中で一番激しくなるのか。これは,冒険しない人には分からないんです。どういう冒険かというと,「あの女を俺のものにしようかしら」とか,「あの標的を狙おう」。「あの仕事を取ってやろう」とか,「あの仕事を人のやらない新しいやり方でやってやろう」とか,新しい冒険をしようとする時に,頭の中の対話が非常に活発になります。何と対話しているのかというと,今の状況と昔の体験との間を行ったり来たりしているわけです。「あの時はああやってうまく行ったけれども,今度もうまく行くかなあ」とか,「いやダメだろうなあ。それはやめておいた方がいいよ」「どうしようか」「でもなあ」と。

    仮に誰かに電話するにしたって,本当は掛けたくない電話を二本も掛けるとすると,朝から考えていますよ。「いつ電話しようかなあ」と。「あの人はどうだろうな・・・夕方の方が機嫌がいいかな?」「朝掛けると怒るんじゃないかな」「いや大丈夫なんじゃないの」と。年中対話している。

    ある新しい行動,激しいものであれば「冒険」をする時に,頭の中の対話というものは活発になります。だから「弁証法」って言うんです。弁証法というのは,別に哲学的な難しい話じゃなくて,我々が年中やっていることです。現実についてどうしようかと考えて,大概はネガティブ・データがいっぱい脳の中に入っているから「お前,そんなことできっこない」だとか「いや,そんなこと言ったって,やりたいよ」とかね。そういう対話をやっていって,あるところでポッと・・・これは次回に繋がっていく話だけれども,そういう「ある行為を決断する」という形で,パッと結論が出る。これをムツカシク言えばアウフヘーベン,日本語では止揚とか言うらしい。そこで結論が出て,うまく行くこともあるければ・・・おおむねはうまくいかない。

    それでも,うまくいかないということを経験すると,今度は少しお利口になって,対話集会に ―――。対話集会になっちゃったらこれは大変です。頭の中にたくさんの人が,700人入っていたのが1人になったっていう人がいました。なんだか眼がトローンとなって,全然心ここにあらずで,宇宙外に飛んでいたんですが,この頃は眼がピカピカしてきた。俺の顔を覚えていて,「先生」なんて言って側にやってきた。「俺のこと知ってるの?」「知ってるよ」「頭,はっきりしてきたの?」って言ったら,「いや・・・」。ナースに訊いたら,700人いたのが1人になった,って言っているから大丈夫だって。

    だから対話集会では,ダメです。真摯な対話を頭の中でやる訓練をしないと。そうすると分裂病になりません。だから「やたらに対話しているから病気だ」とは言わないでください,ということを私は言いたい。対話をしない方がよっぽど病気だよ,と言いたいわけです。(計見一雄,『統合失調症あるいは精神分裂病』,2004年,講談社,p.220-222

  繰り返しになりますが,自動思考についてこれほどわかりやすく書かれた文はないと思います。自動思考は,まさに冒険しようとするときに,わんさか頭に浮かんでくる「自己」の声なんですね。さらに,「真摯な対話を頭の中でやる訓練をしないと」というフレーズ,うなります。認知再構成法というCBTにおける超重要技法が狙っているのは,まさにこういうことなんです。

●認知再構成法とは,「真摯な対話を頭の中でやる訓練」(@計見一雄)である

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