2006年8月14日 (月)

クライアント体験:3ヶ月ぶりのセッションの前

自分のキャパを超える量の仕事をずっと抱えており,本ブログの更新をずっとせずにおりました。秋に立て続けに学会で発表したり,ワークショップやセミナーの講師を担当したりするので(もちろんすべてCBT関連),それらの仕事が落ち着いたら,こまめに更新したいと考えております。それまでは,ごくたまーに,ポツリポツリと・・・。

で,所属機関の月1回の研修会でスタッフ同士で実施している「試行CBT」についてです。4月にインテーク面接,5月に初回面接を実施後,私と相方の都合が合わず,6月,7月にセッションが実現せず,今度の土曜日(8月19日)に,3ヶ月ぶりのセッションが実現する予定です。私の主訴は「禁煙」で,インテーク面接後,めっきりと煙草の本数を減らし,その後多少本数が漸増し,それを維持しているというのが現状です。「今はこのぐらいでいいかなあ」というのが本音で,100箱買った煙草もまだ70箱ぐらい残っているし,吸わなくてよい,あるいは吸ってはいけない時間や場所や状況では,あまり苦もなく吸わずに済ませられるようになったので,自宅や喫煙者の多い飲み会(いまどき珍しい!)では,ほどほどに吸ってもいいじゃない,と自分に言い訳しているのが現状です。

いずれにせよ3ヶ月ぶりのセッションであれば,「3ヶ月の報告」というアジェンダで,ほとんどの時間を使ってしまいそうです(1セッション30分)。3ヶ月を振り返って報告しつつ,現状をセラピストに共有してもらい,そのときどんな気持ちになるかを待って,今後の方針を立てたいと思います。

面白いのが,3ヶ月も間隔が空いても,自分がCBTを開始したというのを忘れる日は一日もない,ということでした。頭の片隅には常にそのことがあって,調子にのって羽目を外した後は,「ああ,そうだったそうだった。私は煙草についてCBTをやっているんだわ」と軌道修正のきっかけにするのです。CBTを受けているという意識が,たとえめざましい進歩ではなくても,ひどい後退(再発)を防ぎ,現状維持をもたらすというのを,身をもって体験しているような感じです。

  というわけで,土曜日のセッションが楽しみです。

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2006年7月17日 (月)

性犯罪被害者支援研修会に参加しました(2)

臨床心理士会主催,被害者支援研修会(とくに「性犯罪被害者支援」という分科会)に参加しての感想のつづきです。

●「なぜ人間性心理学の立場か」の説明をするべきではないだろうか

分科会後半は,B先生の事例発表でした。(つまらない冗談が頻発されないだけ,私の怒りは鎮まりました。)B先生の事例は,性犯罪被害者でPTSDに陥った方に対する,年単位にわたる面接過程を示したものでした(事例についてはこれ以上詳しくここでは紹介しません)。B先生は,前記A先生と同様に,「人間性心理学の立場」に立って,臨床を行っているのだそうです。私自身,人間性心理学の立場による臨床実践がどのようなものか,よくわかっておりませんので,事例そのものについてはとくに感想や意見はなく,しいて言えば,「どんなひどい体験をしても,そこから立ち直る人間の力ってすごいなあ」という,ごくシンプルな感想を,事例に対してではなく,事例に登場したクライアントさんに対して抱きました。

私が疑問に思ったのは,この事例の内容ではなく,「なぜA先生やB先生は,人間性心理学の立場で,性犯罪被害者でPTSDに罹った人の臨床を行っているのか」ということです。PTSDの治療といえば,特にエビデンスという視点から見れば,やはりCBT(特に長時間暴露(PE))や,EMDREMDRCBTに含まれるか否かは,別の議論として重要ですが,ここではちょっと保留)の話が欠かせないと思います。とすると,CBTEMDRを使わず,人間性心理学の立場でPTSDの臨床を行うのであれば,その根拠を教えてもらいたかったのです。

私自身,PTSDの臨床経験は豊富ではなく,PEを実際に実施したこともなく,治療効果のエビデンスとは別に,実際に自分がPTSDの方を担当するとなると,「今の自分が安全にできるアプローチはどのようなものだろうか」との問いを立て,計画を立てると思います。つまり「エビデンスがあるから,絶対にPEをやるべきだ」とか,「効果の発現のありようが明確になっていないけど,とにかく効くからEMDRを実施すべきだ」などとは毛頭思っておりません。だからこそ,B先生らがあえて人間性心理学の立場からPTSDにアプローチするその根拠や効果について,きちんと説明してほしかったのです。「だったら質問タイムに訊けばいいじゃないか」というツッコミもありましょう。が,私の偏見と思い込みですが,そういう質問をしてもそれに納得のいく回答が返ってくるとはとても思えませんでした。そういう質問に対し,十分に納得できる回答が返ってくるような吟味がなされているのであれば,事例発表時にそういう話があったはずだからです。

●「感動しました!」のコメントの嵐

お二人の先生のお話の後は,フロアからコメントが出され,質疑応答が行われました。上記の私の疑問をぶつければよかったのかもしれませんが,あまり回答に期待が持てなかったのと(もしかしたら「ネガティブな結果の先取り」という認知的歪曲?),そもそもそういう批判的なことを皆の前で発言する勇気がなかったので(これは単に「すみません,私が情けない人間なんです」として言いようがありません),私はひたすら黙って,他の方々の発言を聞いていました。

コメントの多くが,事例に対して「感動しました!」というものでした。また他には,「性犯罪の加害者は絶対許せない!」とか,「自分にも娘がいるが,性犯罪だけには遭わせたくない」といったコメントも聞かれました。それぞれのコメントにこめられた思いはわかりますが,「性犯罪被害者支援研修」というアジェンダはどこに行っちゃったのでしょう?他に,参考になるコメントや質問もあり,最後の質疑応答の時間はそれなりに勉強になったやりとりもありましたが,全体的には徒労に終わった研修会参加でした。ひどくもやもやしてしまいました。

この事例も,たとえば心理臨床学会の事例研究発表で発表されるのならいいのですよ。発表聞くのにお金払わないし,そもそも抄録を見て,事前に内容について検討できますから。しかし,今回は前にも書きましたが,臨床心理士会主催の,研修ポイントが発生する,いわば会としては「公的」な研修会です。心理士会主催の研修は,「こころの健康会議」や資格認定協会主催の研修会と並んで,資格更新の際には,必ずポイントを取得しておかなければならない研修の一つです。そういう研修会の質を誰がどうやって担保するのでしょう?

・・・というわけで,ごちゃごちゃ書きましたが,日本の心理臨床の現実に直面するような体験は久々だったので,ある意味,よい体験だったのかも・・・。早々にこの領域でのポイントを取得できたし・・・。と,貴重な休日とお金を費やした体験だったので,強引にポジティブな意味を付与して,本記事終わりにします。

あーあ(笑&ため息)。

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2006年7月14日 (金)

性犯罪被害者支援研修会に参加しました

日本臨床心理士会が主催する第8回被害者支援研修会に参加するため,先週末は福岡まで行ってきました。午前中は全体の講演会。午後が4時間かけて,分科会。私が参加したのは,性犯罪被害者支援の研修会です。わが国で今年からスタートした性犯罪加害者の矯正プログラムに,認知行動療法(CBT)が正式採用され,私もそのプロジェクトにほんのちょびっと関わりがあるので,だったら被害者支援についても,「最新の知見」を入手しておきたいと考え,自腹(航空券代,ホテル代)を切って福岡まで行くことにしたわけです。今思うと,臨床心理士会主催の研修会に「最新の知見」を期待した私が馬鹿でした。今回は,この研修会,とくに分科会に参加しての,批判的感想です。

●テキスト読んで入手できる話ばかりを聞かされた(しかもPTSDについて)

分科会のタイトルは,「性犯罪被害者支援」のはずなのに,分科会前半のA先生のレクチャーは,その4分の3が(もっとかも),外傷後ストレス障害(PTSD)についてでした。しかも,PTSDの三大症状についての話を延々とするなど,要はテキストに書いてあるような話ばっかり。私が聞きたかったのは,PTSDの症状についてではなく,性犯罪の被害やその支援についてなのに・・・。そもそもそういうタイトル(アジェンダ)だったからこそ,この研修会に参加したのに・・・。たとえば,性犯罪被害に遭った人でPTSDに罹る人の割合がどのぐらいで,その違いは何か,といった話を私は聞きたかったのです。また,性犯罪被害によるPTSDの治療は,他の原因によるPTSDに対する治療と同じように考えてよいか,それとも何か別の配慮が必要か,といった話があるものと期待していたのです。(CBTではアジェンダ設定と,アジェンダに沿った話の展開を重視します。そういう話の組み立て方に慣れている私としては,アジェンダ通りにやってもらいたく,とにかくイライラしっぱなしでした。しかも,頻発される冗談がつまらない。つまらない話を聞かされると,たいてい眠くなる私でしたが,怒りで眠気も発生しない状態でした。)

臨床心理士会が主催する,研修ポイントを授与する研修会ということは,会としては公的な意味合いをもつ研修会ということです。しかも私たち参加者は8000円という決して安くない受講料を支払い,しかも日曜日に福岡まで行っているのです。そういう研修会の質がこの程度でよいのだろうか,という疑問を激しく抱きながら,気を取り直して,分科会後半の事例発表を聞きました。(この話,つづく)

※ちなみに本記事は,読む人が読めば,あるいはその気になった人が調べれば,講師の先生方のお名前が明確にわかるはずです。それはまずいことなのでしょうか?という疑問がわきましたが,日本臨床心理士会主催の研修で,いつどこで,誰が講師を務めるのか,という情報は,守秘しなければならないものであるという教示を受けたことはありませんし,個人を誹謗中傷するつもりでこのような記事を書いているつもりもありませんので,思い切ってアップすることにしました。が,万が一このような提示の仕方がまずいという見解があり,その根拠を納得できれば,本記事は削除しますし,つづきの記事(すでに下書きは済んでおりますが)も掲載しませんこと,ここに明記しておきます。

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2006年7月 1日 (土)

お薦めの本:『認知行動アプローチと臨床心理学』(金剛出版)

CBTの実践と研究のインタフェースに関心のあるサイコロジストなら,誰でも尊敬しているであろう(と,私は思っている),丹野義彦先生の新著です。

『認知行動アプローチと臨床心理学』(2006年,金剛出版)

なかなかの大作で,読み応えがありました。

本書の面白さは,ひとことで伝えるのが難しいのですが,とにかく「さまざまな角度から,心理学について学べる,再考できる」と書くとよいでしょうか。認知行動療法の最近の知見のまとめ,イギリスの認知行動療法家の仕事ぶり,なぜイギリスでは認知行動療法がさかんなのか・・・などといった認知行動療法(CBT)に関わる記載だけでも,大変勉強になるのですが,それだけではないのです。

たとえば,心理学は大学教育においてどう扱われる必要があるか,心理学のプロフェッショナルを養成するためのシステムはイギリスの場合どうなっているのか,といったサイコロジストの養成や心理学研究のあり方について,イギリスの実情が詳しく紹介されており,それはそれで勉強になりますし,大いに参考にもなります。

またちょっとした心理学史のおさらいもできます。私は本書で,「連合主義」についてあらためて学べました。

さらにCBTだけではなく,他のアプローチについてもイギリスの現状が詳しく記載されています。対象関係論のちょっとしたお勉強にもなりました。

最後に,やはり本書の素晴らしさは,丹野先生の情熱が,ひしひしと伝わってくることでしょうか。日本の臨床心理領域をもっとエビデンス・ベーストなものにしていくために,CBTを日本において正しい形で普及させるために,イギリスをモデルにしつつ,自分たちで頑張ってやっていこうではないか! という先生の熱い思いが,どの頁を読んでいてもあふれ出てくるように思われました。

以上,とりとめなく書きましたが,とにかく本書の魅力をコンパクトに伝えるのは難しい。ぜひ手にとってお読みになることをお薦めいたします。

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2006年6月22日 (木)

クライアント体験:次のセッションまであと2ヶ月

  今,私が体験している「試行認知行動療法(試行CBT)」は,私が勤務する機関の月1回の内部研修会のときに実施しているものです。なのでセッションのペースは月に1回。かなりゆっくりしたペースですが,急性期ではなく,慢性化した問題を扱うのであれば,この月に1度というペースもなかなか悪くないと,実際にやってみて感じていました。

  が,6月の研修会は相方が研修会を欠席,7月の研修会は私が欠席するはめになり,残念ながら5月のセッションの次は8月,ということになってしまいました。今から数えてあと2ヶ月,この前の5月のセッションから数えて実に3ヶ月ということになります。

  そうとわかったときのクライアントとしての私の反応ですが,確かに残念な気持ちではあるのですが,「とにかく現状を3ヵ月後まで何とか維持して,セラピストに報告したいな」という気持ちが一番強くありました。「3ヶ月あくなら,もういいや,どうとでもなってしまえ」というモチベーション・ダウンでもなく,「3ヶ月あくなら,もっと自分で進めてしまえ」というモチベーション・アップでもなく,維持を望む気持ちです。

  というのも,以前毎日1箱,つまり1週間で7箱以上吸っていた煙草を,今現在週に2箱ペースに落としており,そのなかで「読書療法」をしたり,コーピングカードを使ったり,「吸おうかな,やめておこうかな」という状況でさまざまな自動思考が生じるのを体験したり,「CBTで“我慢”を目指すのは,やはりおかしなことだ」と改めて気づいたり・・・,要はさまざまなことを実感的に体験しており,それだけで今は「いっぱい状態」なのですね。そしてとにかくその「いっぱい状態」を一度セラピストに「報告したい」という気持ちが強くあるのです。報告して落ち着いてから,次のステップに進みたいのです。

  というわけで今回,次のセッションまでの間隔が長いことを知って思ったのは,CBTにおけるセラピストの機能の一つとして,「報告を受ける」「報告を共有する」というのがあるなあ,ということです。「どんなにささいで,つまらないことでも,このセラピストならちゃんと共有してくれるだろう」という信頼があればこそ,こう思えるということも重要だと改めて思いました。

  やっぱりCBTの要は技法ではなく,対話なのだ,ということでしょうか。

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2006年6月15日 (木)

クライアント体験:読書療法感想『禁煙の愉しみ』その1

「禁煙に対する認知行動療法」というタイトルが,実はまずかったと思っています。というのも,私が目指すのが「禁煙」かどうかが,非常にあやういからです。

ただ少なくとも,「遠い先に禁煙できたらいいなあ」という希望的観測のもと,CBTを受け,いろいろと試しているのは事実ですし,面倒くさいので,いちおう「禁煙のためのCBT」ということで,このシリーズ続けていきます。

読書療法の3冊目,『禁煙の愉しみ』(山村 修)について,少しだけ書いてみます。「少しだけ」というのは,本書については,今後いっぱい書きたいからです。また本書を通じて読書療法について改めて考えたことについても,できればちょっとずつ書いてみたいと思っています。

もともと本を読むのが好きな私としては,たとえ実用的な目的であっても,すなわち読書療法目的で読む本であっても,やはり本として読む価値のある,読んでいて楽しい,心に響くようなフレーズが書かれてある本を読みたいものだと思っていました。そういう意味では,読書療法1冊目の『禁煙ファシズムと戦う』は,私にとって実用価値はありませんでしたが,読み物としては,そこそこ楽しめました。逆に『女性のための禁煙セラピー』は,これもあくまでも「私にとっては」という注釈つきですが,読み物としては最低でした。本を読む楽しさ,文章を読む楽しさがまったく感じられなかったので。

  そして今回の『禁煙の愉しみ』です。これはとても素敵な本でした。文章や言葉の連なりとしても素敵。実用書としても素敵。これぐらい素敵であれば,読書療法のお供として,頼りにしたいと思うわけです。本書の何がどのように素敵か,ということについて,今後何回かにわけて書いてみたいと思います。

今日はここまでで失礼します。

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2006年6月 5日 (月)

クライアント体験:読書療法感想『女性のための禁煙セラピー』

  禁煙(節煙)に対する読書療法のご報告第2弾です。

  あの『禁煙セラピー』の著者,アレン・カー氏による『女性のための禁煙セラピー』(2003年,KKロングセラーズ)についてです。

  実は数年前に『禁煙セラピー』は読んだことがあったのです。が,特に何の感想も持たず,そのまま忘れていたのでした。今回あえて購入したのは,「女性のための・・・」という書名に惹かれたのと(美容関係の記述満載かも・・・という淡い期待),『禁煙セラピー』を読んで禁煙した,という人が身近に何人かいたので,読書療法の一環としてまじめに読んでみようと思ったからでした。

  が,結論から言うと,感想は「なんてムカつく本なんだ!」という一言です。今回は禁煙(節煙)を目指すCBTのクライアントとしての立場で,ひねくれた視点ではなく,真面目に読もうと決意していました。本書の冒頭でも,“本書を読むときのルール”として,「心を開いて読む」と書かれてありまして,ふだんなら,このフレーズだけで,「ふん! 心を開いて読めそうな本だったら,わざわざこんなルールを掲げられなくても,自ら心を開いて読むに決まっているじゃない!」と即座にひねくれてしまいそうなところを,「よし,当事者として,ここはあえて心を開いて読んでみよう」と自分に言い聞かせて読み始めたのです。

  この本の特徴は,とにかく読者に,「あなたは単に,自分がニコチンに取り込まれているという錯覚に陥っているだけだ。意志の強弱の問題じゃない。あなたが止めようと思ったその日からタバコをやめれば,それで大丈夫」という“親切で優しい”メッセージに満ち満ちていることです。

  ご丁寧にも,こんなことまで書かれてあるんです。

タバコを吸い続ける人のほとんどが意志の強い人です。タバコをやめられるかどうかではなく,それ以外の面で,スモーカーの精神力を測った場合,禁煙できない人は精神力の強い人がほとんどです。(p.150)

   なんだそりゃ。とにかく禁煙できない喫煙者に対して,否定的でないメッセージを送ろうとする意図が見え見えです。(ヘビースモーカーの言う,「これだけ体に悪いもんを長年吸い続けている自分は,実は意志が強いのだ」という冗談のほうが,よほどマシだと思います。)

  上記のフレーズも含め,読みながら,とにかくムカムカしてくるんです。そしてその“ムカムカ”の正体は,以下のフレーズを読んだときにはっきりとわかりました。

禁煙したあともほかのスモーカーを避けてはいけません。
反対に周りのスモーカーを反面教師にするのです。残りの人生,同じことをしないですむと喜びましょう。スモーカーは惨めな麻薬中毒者です。その本当の姿が見えれば,あなたが感じるのは哀れみだけです。(p.183)

  要はいたるところで二重のメッセージを読者に送っているわけですね。読者に対しては,“禁煙を検討中のあなたは,ちっとも悪くない。意志だって弱くない。大丈夫。ただタバコをやめればいいだけの話。それだってちっとも難しい話じゃない”というメッセージを送りながら,同時に,こういう間接的な表現で,“喫煙者であるあなたは,実は惨めな麻薬中毒者なんだよ。人から哀れまれるかわいそうな存在なんだよ”と伝え続けているのです。戦略なんだろうし,こういう戦略で本書は売れまくっているわけだし,事実,本書によって禁煙できたという人が存在するので,こういう戦略もありだと認めないといけないとは思いますが,こういうダブルスタンダード的表現ってフェアじゃないと思うなあ。少なくとも私自身は,「喫煙者であるお前は惨めな麻薬中毒者だ。それがお前の本当の姿だ。私(著者)はお前に対して哀れみだけを感じるよ」とストレートに書いてもらったほうが,さぞかしスッキリします。

  というわけで,後味の悪い本でした。が,読書療法的には,こういう本を読んだことは決してマイナスではなく,自分の喫煙スキーマ,節煙スキーマ,禁煙スキーマを再確認でき,それはそれで有益だったと思います。また,セラピストとして,こういうダブルスタンダード的メッセージを発することのないよう真に気をつけよう,と襟を正すことができたというのも収穫だったのではないかと思います。

 

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2006年6月 2日 (金)

クライアント体験:コーピングよりモニタリング

  「禁煙」ではなく,「節煙」は,数字的には今のところまあまあ順調に進んでいます。「数字的には」と書いたのは,心理的には結構葛藤する時間帯が多くあるからです。

  数々の禁煙サイトを見ましたが,そもそも「節煙」はダメで,「きっぱりと禁煙」なんだそうです。が,そこまで私はふんぎりがついていないので,吸わない時間を「小さな禁煙(プチ禁煙」と勝手に名づけて,とにかく1日の本数を減らし,少ない本数に慣れることを,当面の目的とすることにしました。

  そのために先日,コーピングシートを作って,それを本ブログでも紹介しました。それをカード状にして持ち歩き,吸いたくなったら常に参照するようにしていましたが,先日ふと思ったのは,「そもそも我慢しようという認知的対処や,我慢するための行動的対処そのものが,ストレスになるからいけないんだな」という,しごく当たり前のことでした。

  CBTではセラピストとクライアントさんで面接目標決める場合,そもそも「・・・しない」「・・・を我慢する」という表現は極力使わないようにします。「・・・しない」という否定的状態はイメージしづらいですし,「・・・を我慢する」なんて楽しくないですもん。「・・・しない」ということは,言い換えれば何をするということになるのか,「・・・を我慢する」というのは,我慢しながら,別の何をするということになるのか,それらは目標として目指したくなるような状態なのか,それを目標にしたら気持ちがウキウキしてくるのか,その目標を達成できる自分を嬉しいと思えるのか・・・という大事なことを,自分のコーピングカードに対して使っていないことに気づき,自分で呆れてしまったのでした。

  コーピングカードは引き続き持ち歩いていますが,そういうわけで,別の目標イメージが必要だなあと思い,それをぼんやりと探しているのが現状です。が,それでも多少の「我慢」を重ね,吸わない時間帯が生活のなかのそこここに発生しておりますので,今はそれをどうやってしのいでいるかというと,CBTの定石ですが,「セルフ・モニタリング(自己観察)」です。ほどよいコーピングが決まるまでは,とりあえずは自分をモニターすることを続け,ストレス下の自分の反応をつぶさに把握するというのが,必要ですし役に立ちます。というわけで,今は,プチ禁煙中と決めている時間帯に喫煙欲求が生じたときは,ひたすら「ああ,またこの欲求が出てきたぞ。こいつがどんな奴で,いったいどうなっていくか,ちょっと様子をみておこう」とモニターするようにしています。我慢を自分に強いるようなコーピングより,そのままのあり様をモニターするほうが,気持ちも楽ですし,むしろそれが吸わない時間帯のコーピングになるようです。

  「コーピングの前に,たっぷりとモニターすることが大事」などということは,上記のとおりCBTの定石で,普段の臨床で実施している(はず)のことなのに,なんと自分のCBTについては,モニタリングを飛び越してあせってコーピングを実施してしまった・・・という「ミイラ採りがミイラになる」(この使い方は合っているかな?)ようなことをしていたのでした。・・・お恥ずかしい話です。

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2006年5月26日 (金)

クライアント体験:読書療法感想『禁煙ファシズムと戦う』

読書療法の途中経過です。

『禁煙ファシズムと戦う』 小谷野 敦・斉藤貴男・栗原裕一郎(著)

これは反嫌煙運動本です。一気に読了しましたが,感想を一言でまとめると,小谷野氏のパート(これが大部分ですが)は,「下品!」に尽きます。

読み物としては面白いです。中島義道氏の『うるさい日本の私』を読んだときと同じ面白さを感じました。

が,「神経症の自分にはストレス解消のために,いつでもどこでもタバコが必要なんだ。タバコごときでうるさく言うでない。タバコなんかより,排気ガスを撒き散らしている車のほうが,よほどひどいじゃないか。タバコに文句言うより,車に文句言え!」という主張を,露悪的に吐露するやり方は,一読者としては面白がれますが,一喫煙者としては気分が悪くなりました。

ただ,共著者である斉藤貴男氏の,小谷野氏に比べればかなり冷静な議論は,それなりにもっともだと頷きながら読めました。(ちなみに斉藤氏は非喫煙者だそうです)

たとえば,こんなくだり。(旧厚生省の補助を受けた,喫煙者の生涯医療費が非喫煙者の医療費をいくらか上回る,という研究報告に対するコメント)。

  人間は何のために生きているのかと,否応なく考えさせられる。ならば肝機能障害に直結する飲酒はもちろん,ケガの原因となるスポーツ,目を悪くする読書,およそ人間のあらゆる営みに同じことが言え,“予防”の対象になり得る。

  長生きしすぎた老人や身体障害者,治る見込みのない重病人,働かない貧乏人,余計なことを言って社会全体の生産性を低下させるジャーナリストや評論家など,皆とっとと死んでくれることが,財政にとっては一番ありがたいことになる。(p.131)

あるいは,こんなくだり。

  このような思考経路を辿って作成された「健康日本21」試案は,その全体像も,ザミャーチンの『われら』を彷彿とさせる,馬鹿馬鹿しいほどの人間管理思想に貫かれたものになった。先に一部を紹介したが,もう少し列挙しておく。

「質・量ともに極端に偏った食事をする者の割合を減らす」(一日最低一食,きちんとした食事を,二人以上で楽しく,三十分以上かけてとる)」

「一ヵ月間にストレスを感じた人の割合を減少させる」

「六十歳における二十歯以上の自分の歯を有する者の割合を増やす」

「適正な身体活動をする者の増加(国民の10%が早歩き毎日30分実行)」

  誰も好きこのんで孤独な食事を摂っているわけでも,ストレスを溜めているわけでもない。早歩きの励行に至っては泣けてきた。私たちはなぜ,国ごときに自分の健康についてまで指図されなければならないのか。(pp.149-150)

公衆衛生的思想というのはそういうもんでしょ,とも思いますが,私自身も斉藤氏が表明している,国や世論の「清潔・浄化志向」に対する強烈な違和感はわかります。それが喫煙に向かえば,「禁煙ファシズム」と呼んでもよいような極端な主張や制度化につながりうることにも同意します。

斉藤氏は非喫煙者です。そして私は小谷野氏の露悪的態度より,非喫煙者ながら本書に寄稿した斉藤氏に与したいなあと思います。つまり,小谷野氏のように,人びとに抗議されながら,そしてあらゆるところでトラブルを起こしながらといった,つまりバカバカとタバコを吸い続けるといったやり方以外で,「禁煙ファシズム」的なこととは戦いたいなあと思うわけです。

試行CBTを通じて,自分の「タバコスキーマ」をメタ的に考えることの多い今日この頃,いろいろなヒントを与えてくれる本ではありました。

読み物として面白かった分,『女性のための禁煙セラピー』よりはずっとよい本かも。(『禁煙セラピー』については,近日中に書きます。本当に嫌な本でした)

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2006年5月20日 (土)

クライアント体験:読書療法

試行CBTの初回セッションを受けて,5月15日から100箱作戦(別名「超節煙作戦」)を開始して今日で6日目。

これまで1日1箱,場合によってはもっと(飲みにいくと急増)でしたが,コーピングシートを用いつつ,1日平均5本ペースで落ち着いております。これが第一の落としどころという感じがします。仕事中はほとんど吸いません。仕事前,仕事後,帰宅後,夕食後,就寝前という感じです。

が,今日これからお酒の入る食事に行きますので,これが鬼門だな(相手もスモーカー)。明日はタバコ大嫌いな人(母親なんですが)と食事に行きますので,これも別の意味で鬼門です。ただいずれにせよ,「エクスポージャー」と思って臨むことにします。

ところでCBTと言えば読書療法(bibliotherapy)。希望するクライアントさんには積極的に本を紹介し,セッションで検討することも多々あります。というわけで,私も読書療法してみようと思い,次の本を注文,すでに到着,①を読み始めております。

『禁煙ファシズムと戦う』  小谷野敦 他

『女性のための禁煙セラピー』  アレン・カー

『禁煙の愉しみ』  山村 修

①は,禁煙・節煙サポートのため,というより,自分のタバコに対する認知(というよりスキーマに近いもの)を再構成するための参考にするためです。結構笑えます。②は,あの『禁煙セラピー』の著者ということで,ちょっと引き気味なのですが(かなり前に読みましたが,しかけが見え透いており,ひねくれ者の私は素直になれなかった),やはり定番ということで,今度は素直に読む努力をしたいと思います。一番期待しているのは,③。タイトルからして,そそられます。

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2006年5月19日 (金)

クライアント体験:コーピングシートの内容

またまた禁煙(というか超節煙)に対する試行CBTのご報告です。

先日の記事にも書きましたが,初回セッションを受ける前に,初回セッション後すぐに100箱作戦を開始したいと考え,自分なりにコーピングシートを作成しておりました。今日はそのご紹介です。

コーピングシートとかコーピングカードは,認知行動療法ではよく使われる技法ですが,どうってことありません。予測される問題状況に対処したり,予測される望ましくない反応を予防したりするために,予め具体的なコーピングを決めておき,それをシートやカードに記入し,持ち歩いて,いつでも参照する,というものです。

以下に私の作ったコーピングシートの内容を,一部示します。

●予測される問題状況

・前回の喫煙から1時間ぐらい経ったのを確認したとき

・今後1~2時間,タバコを吸えないと認識したとき

・食事を終えたとき   ・ちょっと一息ついたり気分転換したいとき

(以下略)

●予測される自分の反応

・「タバコ吸いたいな」「吸っておこう」「吸っておかなきゃ」と考える

・タバコを吸う準備をする(例:場所や灰皿の確保)

・1本取り出して吸う → とりあえず満足する

●上記の状況・反応への認知的コーピング

・「その1本を,とりあえず次まで吸わずに取っておこう」

・「実は,吸わなくてもいいんじゃないの?」

・「タバコをやめると,どんないいことがあるのかな。5つ考え出してみよう」

(一部略)

●上記の状況・反応への行動的コーピング

・タバコを吸える場所,状況から離れる

・腹式呼吸をする。息を吐きながら煙を吐いた気になる

・「吸わないことにする」と声に出して言う

・ガムをかむ,あめをなめる,水を飲む

・タバコをやめることによって得られる「いいこと」を5つ書き出す。もしくは頭の中で考える

・「タバコを吸う」以外の行為に注意を向ける

・以上の対処でしのげなかったら二コレットを噛む

・それでも駄目なら1本吸う

(一部略)

・・・とあらためて書いてみると,まったくもってありきたりの内容で,さらに「駄目なら1本吸う」などと自分に甘いのが笑えます。

  が,コーピングシートやコーピングカードの目的は,何か特別な対処法を発見したり実施したりすることではなく,問題状況に身をおいている際に忘れてしまいがちなコーピングを外在化しておき,いつでもそれを見られるようにしておく,というしかけを作ることなので,まあこれでも良いのでしょう。あとはこれをちゃんと活用するかどうかですが,今のところ,まあまあかな。(なにしろ「駄目なら吸う」までコーピングに入っているので,失敗というのが起きようがないのです)

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2006年5月14日 (日)

クライアント体験:第1回セッション

最近この話題ばっかり。

昨日,試行CBTの第1回セッションがありました。時間は30分。内容と感想を簡単にまとめてみます。

●昨日のアジェンダ

1.ホームワークの確認

2.コーピングシートの共有

3.CBTモデルに基づく現状のアセスメント

4.まとめ(ホームワークの設定とフィードバック)

●アジェンダ1.ホームワークの確認

「人生最後のタバコ」を100箱揃えて,箱に番号をつける,というのがHWでした。これはきちんとやってあったので,得意気にセラピストに報告しました。携帯の写真という証拠も見ていただきました。

●アジェンダ2.コーピングシートの共有

このアジェンダは私から提案したものです。数回のセッションを使って,綿密にアセスメントをして,計画を立ててから,超節煙を始めるか,もう100箱揃えたので,早々に超節煙に取りかかるか,少々迷ったのですが,セッションが月に1回ですので,計画立てまできっちり実施するとなると,数ヶ月かかってしまいます。それはちょっともったいないと思ったので,自発的にコーピングシートを作って,タバコを吸いたい状況と,そのときどうやって吸わずにしのぐかという認知的コーピングと行動的コーピングについて,シートに記入して,セラピストと共有し,OKということであれば,開始しようと考えたのでした。

というわけで,シートをセラピストに見せ,これでOKということだったので,早速超節煙に取りかかることになりました。(明日から,と決めています)。コーピングシートの中身については,また後日。

●アジェンダ3.CBTモデルに基づく現状のアセスメント

これは前回合意していたアジェンダであり,セラピストから改めて提案されたアジェンダでもあります。セラピストは「タバコを吸いたい場面を切り取って,具体的にアセスメントしましょう」と提案してくれたのですが,この作業はすでにコーピングシートを作成するときに,自分のなかで完了した感があるため,私からは,「むしろ,現状を少しまとめた形でアセスメントしたい」と提案・依頼しました。それが受け入れられ,セラピストとやりとりしながら,まさに今,超節煙にとりかかろうとしている現状を,CBTのモデルに沿って同定し,それをセラピストがアセスメントツールに書き込んでいってくれました。現状が外在化され,整理されたことによるスッキリ感がありました。(アセスメントの内容や感想もまた後日。)

●まとめ(ホームワークの設定とフィードバック)

ホームワークは,①コーピングシートを用いて超節煙に取りかかること,②毎日の本数を手帳にメモすること,③1日3本以内なら300円貯金することにしたので,その合計値も手帳にメモすること,の3点になりました。最後に本日のセッションの感想を私がフィードバックしました。セッションを通じて,「いよいよだな」と強く思いましたので,シンプルにそれをセラピストに伝えました。

以上が,初回セッションの報告です。こうやってまとめてみると,認知行動療法がいかにセッションを構造化するか,ということが改めてよくわかります。また前回のインテークは15分,今回のセッションは30分で,私たちが通常実施しているセッション(45~50分)に比べると短いのですが,それでもかなりいろいろなことができるなあ,という感想を持ちました。これもCBTの構造化という特徴が寄与していると思われます。

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2006年5月12日 (金)

クライアント体験:初回セッション前夜の気持ち

早いもので,明日が試行CBT,初回セッションです。(前回はインテーク面接扱いでした)

「禁煙しようかな,どうしようかな」という,何とも曖昧な主訴を語ったインテークから早一ヶ月,いまだに心が定まりません。

一応,「人生最後の100箱」を買い揃え,1から100まで番号を振る,というホームワークは実施しました。それどころか,もし明日からその100箱に手をつけるということになったら,という予測のもとに,コーピングシート(問題となりそうな場面において実行可能な,認知的コーピングおよび行動的コーピングを具体的にリスト化するシート)まで自発的に作成してしまいました。明日はできれば現状をCBTのモデルでアセスメントしてもらい,さらにコーピングシートをセラピストに共有してもらったうえで,100箱作戦を開始する決意を固めたいと考えています。

セッションの前夜の今,半分気が重いのですが,半分は結構楽しみでウキウキしている感じです。「それはあくまで試行CBTだからでしょ?」という声も自分の中にあるのですが,反面,CBTを受けに来る本物(?)のクライアントさんたちが,「来るのが楽しい」「(セッションを終えて)今日も楽しかった」「今後どうなるか楽しみ」というように,結構「楽しい」という語を使ったフィードバックをしてくれることがあることを想起し,「そっかあ,クライアントさんたちは,こういう感じで『楽しい』って語っているのかなあ」と考えたりもしています。

ともあれ,明日のセッションを経て,私はとうとう禁煙,というか超節煙の道に踏み出すのかどうか,ちょっとドキドキしていますし,やっぱり楽しみです。

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2006年5月 1日 (月)

クライアント体験:ホームワークやりました!

試行CBTのネタばかりですみませんが,今回もこれです。

私の主訴は,禁煙ですが,とりあえず前回のインテーク面接時に設定されたホームワーク(といっても,私がセラピストさんに提案させてもらったのですが)は,「100箱作戦」のために,とりあえず100箱煙草を買って,箱に番号を振る,というものでした。

ということで,日々,せっせと煙草を買い続けていたのですが,先ほど溜まった煙草がどうやら100箱程度はあるように思われたので,数を数えてみたところ,106箱になっており,そのうちの100箱に「1」から「100」の数字を振り(箱の底に油性マジックで書き込みました),番号順に紙袋に並べました。

そこでふと思ったのが,「紙に書くスタイルのホームワークなら,それを次のセッションに持参すればよいが,このホームワークを実施したことを,セラピストにどう伝えたらよいのだろう?」ということでした。「ホームワークやりました! 自宅にナンバーの振られた煙草が100箱,待機してます!」と口頭で伝えるのでも良いのでしょうが,せっかくやったホームワークなので,もう少し「本当にやったんだよ!」ということをセラピストに伝えたいと思い,携帯で写真を数枚撮りました。次回の初回セッションでは,その写真をセラピストに見てもらおうと思います。やっぱりせっかく実施したホームワークは,できるだけセラピストに共有してもらいたい,と考えるわけです。

CBTは「協同的問題解決」である,と折に触れて私は言っているのですが,実際に「クライアント」としてホームワークをやってみて,やはりクライアントの視点からも,「確かに主役は自分だが,セラピストと共に問題解決していくんだ」と思えるのだ(もちろん全てのクライアントさんがそうだとは言いませんが),ということが実感できたような気がします。

ホームワークをやると,さらに次のセッションが楽しみになってくるのも面白いです。CBTのクライアントさんは,CBTについて,「楽しい」「面白い」という感想をおっしゃる方が多いのですが,「なるほど~」という気がします。

とにかくこの「クライアント体験」,何から何まで新鮮です。当面,この話題ばかりかもしれませんが,お付き合いいただけますと幸いです。

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2006年4月27日 (木)

クライアント体験:他者による問いの力(2)

  またまた試行CBTの報告です。(最近,こればっか・・・笑・・・しかし,貴重なクライアント体験については,できるだけ事細かに記録しておきたい)

  セラピストに主訴をおずおずと語った後,「どうしてあなたは禁煙したいのですか?」と改めて問われた際,ほんの数秒あるいは十数秒だったと思うのですが,ものすごく真剣に,かつ,めまぐるしく,自分のなかで改めて自分に問いました。「どうして私は禁煙したいなどと,この場で言っているんだろう?」と。

  で,出てきた答えは,「私は煙草を止めたいのではなく,今の,この世の中で,【煙草を吸う人】であることを止めたいんだ」ということでした。

  改めてまとめると,私は煙草を止めたいのではないのです。そうではなく,煙草を吸う人を「かわいそうな人」扱いする,今の世間の情勢において,そのような「かわいそうな人」扱いされるようなポジションにいることが嫌なんだ,ということです。

  そのように答えてみて,なんだか非常に,「あ,そうだったのか」とスッキリしてしまいました。このスッキリは,問われて初めて気づいたからではなく,これまでも間違いなく,うすうすそう思っていたのですが,問われて自ら改めて考え,その考えを口にすることによって,それをはっきりと目の前の他者(セラピスト)に対し,明確に言葉にできたからこそ得られた感覚だと思います。

  これがCBT的コミュニケーションにおける,ソクラテス式問答のもつ力なんだと,答えたあと,やけにしみじみと感じてしまいました。クライアントとしての私は,この問答を体験できただけで,インテークを受けてよかった,と満足しています。

  しかしひるがえって,普段セラピストとしてCBTを実践する者としては,「問いの力」の大きさについて気をつけなければならないと,改めて実感しました。ある問いを問われて,それに答えるだけで,これだけ満足できる場合があるということは,逆もあるということです。つまり,セラピストの問いに対して自問するだけで,これだけ満足できる場合があるということは,逆に,問われることによって大きく心が揺さぶられる場合がありうるということなのだと思います。

  この「問いのもつ力」については,私なりに注意して,用心深くひとつひとつの問いをクライアントさんに発してきたつもりではありますが,今回のこの体験によって,自分の発する問いに対して,さらに自覚的になろう,と決意した次第です。

   ・・・という具合に,たった15分間の試行CBTのインテーク面接を体験しただけでも,あれやこれやと様々な感想が生じること自体に,新鮮な驚きを感じています。(で,こうやってブログに垂れ流している・・・)

   ・・・などと書きつつ,次回のセッションまでのホームワーク(生涯最後の煙草を100箱用意して,各箱にナンバリングする)には,いまだ全く手をつけていなかったりするのでした。(それにしても「100箱」という数量に,未練がましさを感じるなあ)

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2006年4月25日 (火)

クライアント体験:他者による問いの力(1)

またまた試行CBTの話題です。

インテーク前に様々なことを考えているうちに,とうとう試行CBTのインテーク日当日となりました。当日ともなると,「とうとうこの日が来てしまった」「もう逃げられない」といった認知(自動思考)が生じ,気分的にも「開き直り」に近い感じになってきます。そして,「どうせ始めるんだから,つべこべ言っていないで,セラピストに助けてもらいながら,やれるだけやってみよう」と,なかばやけくそ気味な自動思考が浮かんできました。そしてとうとうセッションが始まりました。

時間の都合で,当日は1回15分の「インテーク面接」という設定でした。インテークなので,本題に入るのではなく,「何を主訴とするか」「その主訴に対して,どのようにしてCBTを進めていくか」といった話を中心に行われたのですが,この日一番の収穫は,私がおずおずと「一応,禁煙したいということを主訴に進めていってほしいのですが・・・」と言い出したことに対し(中途半端なモチベーションなので,どうしても「おずおず」「もじもじ」と言い出す感じになっちゃうんですね),セラピストの言った「どうして禁煙したいのですか?」という問いに対する自分の反応でした。

  セラピストの質問に答えようとして,しばらく考えているうちに,自分が「禁煙」を主訴とする理由,つまり「どうして?」に対する答えが,突然自分のなかでとてもクリアになり,自分自身で非常に納得してしまったのです。

  一応「禁煙」を主訴に,この試行CBTに臨もうと思っていたぐらいですから,「自分はなぜ今回,この試行CBTにて,禁煙しようとしているのか」などなど,さまざまな自問自答はすでに発生していました。しかし,そのような自己完結的な自問自答と,目の前のセラピストから,つまり他者から発せられる問いに対して行われるオープンな自問自答とは,全く違っていたのです。その違いを,このとき,まざまざと実感しました。

  自己完結的な自問自答の場合,結構アバウトな回答で満足して,終わってしまうのですね。禁煙で言えば,「やっぱり世間の目は厳しいし」「健康に悪いし」「お金ももったいないし」などなど,ありがちな回答で適当に満足して,「だからやっぱり禁煙したいよね」とへらへらと考えるに留まり,それで終わり!という感じです。が,目の前にいるCBTのセラピストから,「どうして禁煙したいの?」と聞かれたときには,自己完結的な自問自答とは全く異なる真剣さで,思わず自問してしまっていたのです。「本当にあなた(自分)は,なぜ禁煙したいのか。なぜ禁煙を主訴に,CBTを始めようとしているのか???」と。これがまさに「問いの力」なんだなあ,と実感しました。

  そして,セラピストを目の前にして,あれこれと考えた結果,「あ,そうか!」というぐらい,自分にとっては明確な,禁煙したい理由が浮かび上がってきたのです。まさに「浮かび上がってきた」という感じでした。浮かび上がってきたものをつかまえて,「あ~,なるほど,そうだったのか~」と,自分のことなのに,改めてびっくりする,という感じでした。

  とりとめがなくなってきましたし,長くなってきましたので,自問の結果気づいたことについては,次の記事に書きます(といっても,大したことに気づいたわけではありません。私としては,気づきの中身より,セラピストとの対話のなかで,今までとは違う「気づき方」をした,という体験ができたこと自体が,むしろ新鮮でした。・・・といちいち伏線をはること自体が,禁煙に対して覚悟が決まっていない証拠かも・・・笑)

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2006年4月20日 (木)

クライアント体験:インテーク前の心の揺れ

  クライアントとして,認知行動療法(内部研修会での試行CBT)を受けることが決まってから,昨日も書いたような認知的,行動的変化が自然に起きたのですが,その体験が自分にとっては非常に新鮮でした。そして全く同一とは言えないと思いますが,我々がやっているような民間機関にインテーク面接を申し込んでくださるクライアントさんの思いを,これまでよりほんの少し,より理解できたような気がしました。(あくまでも「そんな気がする」というレベルですが)

  特に私が「ああ,なるほど,そういうことなのか」と思ったのは,「あまり早急に進めないで欲しい」「ゆっくりと進めていってほしい」「主訴を解消したいのはもちろんだけど,でも,時間をかけて徐々に変わっていきたい」というクライアントさんの思いです。

  そのようなクライアントさんの思いと,私ごときの「禁煙してみるかな」という半端な思いを一緒にするのは,ある意味大層失礼なのかもしれませんが,それでも研修会の「試行CBT」といえども,一人のクライアントとして真剣にCBTを受けようとする者からすると,確かに主訴を何とかしたいという思いはあるのですが,でもそのような主訴を抱えている自分は,これまでも,今も,これからも自分として生きていく自分であって,主訴もそのような自分の一部なのです。とすると,たとえ主訴であっても(すなわち解決したい問題であっても),それらとある程度じっくりと向き合い,ちゃんと考え,納得して解決の道を探り,辿っていきいたいのです。

  ・・・といった体験を通して,CBTの進行について話し合う際,「ゆっくりと進めていってほしい」などといった希望を出されるクライアントさんの思いが,これまでよりもう少し実感をもって理解できるような気がしたのでした。

  (いきなり話が大きくなりますが)人は「変わりたい」と思うと同時に「変わりたくない」と思う存在なのだと思います。その人は,これまでも,今も,これからも,変わらず「その人」であり続ける限り,それは当然の思いだと思います。だからこそ,問題解決志向の認知行動療法を実施する者としては,あるいは,トライアルで認知行動療法をクライアントとして受ける者としては,何らかの問題を抱える自分自身は自分自身として大事にして,一方で,何とか解決したい問題は,協同作業を通じて,解決のための努力を続けたいものだ,と今回の体験を通じて,改めて実感した次第です。

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2006年4月19日 (水)

クライアント体験:インテーク前の認知と行動

  「禁煙」を主訴として,「クライアント」の私が試行CBTに臨むことにしたのは,昨日書いたとおりです。

  面白いことに,4月15日の「インテーク面接」に向けて,私はいろいろと考えたり行ったりしました。その例を挙げると・・・

1)自分が本当に禁煙したいのかどうか,自問自答が始まりました。本当に禁煙を主訴として試行CBTが始まってしまうと,それに向けて動かざるをえなくなることはわかっています。だからこそ,インテーク前に,「本当に禁煙を主訴にして,CBTを受けることにしちゃっていいの?」「それだけの覚悟はできている?」「もう少し達成しやすい別の問題を主訴としたほうがいいのでは?」「でもめったにないチャンスだから,やはりこれを機に頑張るべきなんではないか?」「もしうまくいかなかったら,『弱い人間』だと,セラピスト役の相方や仲間に思われてしまうのではないか?」・・・etc,とにかく試行CBTのことを思うだけで,さまざまな自動思考が頭を飛び交うのです。

2)禁煙に向けて,私の行動プランはすでに決まっていました。「生涯最後の100箱」を購入し,その100箱を吸い切ってもよいし,途中で吸わなくなっても良いのですが,とにかくきっぱりと辞める勇気も意志もない私としては,「残り100箱」から節煙をスタートして,その100箱が尽きる前に,今とは別の状態に落ち着きたいと考えておりました。というわけで,すでにインテーク前に,せっせと100箱を買い揃える行動を始めておりました(よくわからないのですが,カートン買いはしたくないのですね。自販機とかコンビニでふだんなら1つ2つ買うところを,3つ4つ購入して,せっせとためておりました)。思えばおそらく,インテーク時に主訴をセラピストに述べるとき,「すでにそれなりにやる気になっている。その証拠として,『100箱プラン』というのが自分にあり,そのための行動をすでに起こしているのですよ」と,セラピストにアピールしたかったのでしょう。

というわけで,認知的には自問自答,行動的には100箱の溜め込みをすでに開始した時点で,4月15日のインテーク面接の日を迎えたのでした。(つづく)

(書いていて馬鹿馬鹿しいような,「こんなことブログに書いちゃっていいのだろうか」と恥ずかしいような気持ちになってきましたが,これも一種の「エクスポージャー」と考え,とりあえず書き続けます。・・・ああ,恥ずかし)

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2006年4月18日 (火)

CBTのクライアントになることになりました!

  これまで当ブログの記事を書くにあたり,ワードで一度文書を作成し,それを貼り付けていたのですが,その作業自体が結構面倒くさくなり,更新を先延ばしにしていた側面がありました。(研究者(の端くれ)の性なのか,本来は強迫的な人間では全くないのですが,「文書やデータの管理だけは,出来る限りちゃんとしておかないと,後で面倒くさいことになる」というビリーフに基づき,そうしていました) が,しかし,「本ブログを自分用の備忘録に使うのであれば,そんな面倒なことをしなくてもよいのではないか」という,まことに自分に都合のよい「適応的思考」をでっちあげ,そういう文書管理いっさいなしに,今日から直接書き込むことにしました。というわけで,系統立てて記事をアップしていく,というこれまでの野望(?)はいっさいチャラにして,そのときどきの思いつきで,何とか当ブログの存続を図ろうと思います。(当ブログが存続しなくても,誰にとっても何の支障もないのですが,CBTについて好きなことを書き散らす場を,自分のためにとりあえず残しておきたいという気はします)

  というわけで,やっと本題なのですが,私自身がCBTを受ける立場,すなわちクライアントになるという,面白い企画が始まったので,これについては随時,当ブログで報告することにいたします。

私が運営する,とあるCBT専門機関では,月に1度,スタッフが勢揃いする内部研修会を実施しています。今年度の通年テーマとして,スタッフ同士でペアを作り,1年間かけて,セラピストとクライアントをお互いにやりあう「試行CBT]というのを実施することになりました。

  これはあるイベントの後の飲み会でアイディアが出たもので,コンセプトとしては,「精神分析には教育分析があるのなら,認知行動療法でもそれに該当する研修があってもよいのではないか」というものでした。しかし症状や問題に焦点をあてるCBTの場合,いわゆる「主訴」がないと始まりません。そこで「果たしてみんな,主訴はあるのかな?」という話になったところ,それが出してみれば,皆それぞれ,大なり小なり「主訴」と呼べるものが結構あったのです。というわけで,「だったらせっかくの機会だし,面白そうだから,研修会を使って試行CBTを皆でやってみよう!」という話になり,やっと実現までこぎつけたのでした。そしてあみだくじで,スタッフ同士ペアを組み,先日めでたく,「試行CBT」初回面接が実現したのでした。

  これまでCBTのトレーニングの一環として,小さなロールプレイは体験したことがありましたが,継続的にクライアントとしてCBTを受けるのは初めてです。このような貴重な体験をすることはめったにないことだと思いますので,今後,当ブログでは,私の「クライアントとしてのCBT体験」を,断続的に紹介していきたいと思います。

  で,先日,「初回面接」がありました。これは「インテーク面接」扱いのセッションです。たった15分間でしたが,得るところがしっかりありました。これについては後日,別記事を書くとして,とりあえず,今回の試行CBTにおける私の「主訴」だけ今日は紹介しておきたいと思います。(あ,いちおう,私とペアを組んだ相方さんからは,この件を当ブログに紹介する承諾は得ております。クライアントがセラピストに承諾を得る,というのもなかなか面白いものですね)

  私の主訴は 「禁煙」です。

  以上!(笑)

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2006年3月30日 (木)

【認知療法・認知行動療法】コラムその13:EBMの理念を現場の臨床家はどのように目指すか?

  EBM(エビデンスに基づく医療)が提唱されて久しいですが,臨床心理学の領域でも,その後を追うように,「エビデンスに基づく臨床心理学」が提唱され,エビデンス重視の議論が活発になされるようになってきています。

  そもそも私が認知行動療法(CBT)を志すことに決めたのも,CBTが当初から治療効果研究を積極的に行い,そのデータを公表しているという実証主義に共鳴したのが大きな要因の一つでした。現在もCBTは,各障害におけるモデルを構築する際にも,各技法の効果を検証する際にも,実証的研究によるデータを重視し,データとモデルとの相互作用を積極的に追求しています。私自身,臨床実践と基礎的実証研究のインタフェースは最も興味のある領域であり,いつになったらまとめられるかわかりませんが,現場での臨床活動と並行して,実証データも少しずつ蓄積しております。(もうちょっと言えば,CBTそのものが,「実証的協同主義」と呼ばれるプロセスをたどるわけで,そういう意味ではCBTの一つ一つのケースそのものが,エビデンス・ベーストの実現を目指すものなのですが,この件はまた後日)。

  が,現場で臨床を実践している者からすると,鬼の首でも取ったかのように,「EBM!」「エビデンス!」とあまりにも連呼されるような場に遭遇すると(そんな場面は,特に日本の臨床心理学領域では,かなり例外的なのかもしれませんが),少々違和感を覚えます。RCT(無作為割付比較試験)が実施できる対象疾患や現象はごく限られたものであり,そのような研究から報告されるデータは,エビデンスとしては強いかもしれませんが,実際に目の前でお会いするクライアントさんは,それぞれ非常に個別的な存在であり,まずは目の前に生身で存在するクライアントさんを,CBT的な視点から全体的に理解し(すなわち,全体像をしっかりとアセスメントする),そのアセスメント結果に基づいてどのような技法を適用するか,当のクライアントさんと相談しながら計画を立てていくことのほうが,確率論的な手法によって報告されているエビデンスを適用することより重要だと思うからです。

  とはいえ,今はクライアントさん自身が,エビデンスを求めます。もうちょっと正確に書くと,「エビデンスに基づく心理臨床サービスを求めるクライアントさんが増えている」ということになりましょうか。そしてそのようなニーズはもっともなことだと思います。仮に私が何らかの病気にかかって治療を受けるとするならば,やはりエビデンスを知って参考にしたいと思うに違いありませんから。が,逆に今自分が臨床家として,世界中で量産されている文献,およびその文献を検索するシステムを駆使する力が自分にあるかと問われたら,「ありません。すみません」と謝るしかありません。現場の臨床活動によって日々の糧を得ている人が,そのような時間とエネルギーとシステムを持つことは,相当に困難だと思います(ちょっと,言い訳っぽい?)。

  ではどうすればよいのかといえば,第一の代替案としては,やはり第一線で活躍するエキスパートがいるところに出かけていくことだと思います(CBTの場合,エキスパートはエビデンス情報を豊富に持っていたり,エキスパート自身がエビデンスをつくる側におられることが普通ですので,エビデンスとエキスパートは対立概念になりません)。具体的には学会や研究会やワークショップということになりましょうか。私ができるだけ時間を割いて専門分野の学会や研究会に出かけていくのは,その時々のテーマに興味があるというのもありますが,やはりエキスパートが入手している生の情報や,それに対するエキスパート個人の率直な考えを直接聞きたい,という動機が大きいです。エキスパートによる有益な情報や考えをひとつでも聞くことができれば,それは明日からの臨床に,それこそエビデンスとして活かすことができます。昨年12月の日本認知療法学会に参加した際も,本当の意味でのエキスパートが多数参加する学会の役割と効用について,しみじみと実感することができました。

  というわけで,エビデンス・ベーストを目指す臨床家の皆さんは,データベースから入手するエビデンスも大事ですが,そのような機会がなかなか持てない場合,学会や研究会やワークショップのなかでも,特にその道のエキスパートと直接対話できそうな機会をみつけて,研鑽を積んでいきましょう。

またCBTを求めるクライアントさんには,そのような努力をたゆまず継続しているセラピストを見つけていただきたいと思います。どうやって見つけるかといえば,上記のような研鑽を積んでいるか否かを,直接セラピストに尋ねればよいのだと思います。そのような質問はユーザー側が当然してよい質問ですから,遠慮なく尋ねればよいのです。なぜこのように書くのかといいますと,「認知行動療法が出来ます!」と自己申告しているセラピストが最近急増しているようで,このような現状を少々危惧しているからです。きちんとCBTを実施できる人とできない人との差は,上記のような努力をしている人としていない人との差でもあるのではないかと思いますので(それだけじゃないとは思いますが),そのことが,ユーザー側のセラピスト選択のひとつの「エビデンス」になるのではないかと私は考えています。

●今日のまとめの一言: EBMならぬエビデンスに基づく臨床心理学を現場の臨床家が実践するには,現場や研究において第一線で活躍するエキスパートと継続的に顔を合わせる機会をもつことである。

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2006年3月22日 (水)

今日のストレスコーピング(8):たわいないおしゃべりを楽しむ

今日は休日にもかかわらず,どうしてもまとまった時間を確保して取り組みたい仕事があり,日中職場に出かけました(WBC日本対キューバ戦に後ろ髪をひかれつつ・・・)。

せっかくこのように休日の時間を使って,あるケースについてこれまでの記録を引っ張り出して,今までのデータをまとめる作業を始めたのですが,これがあんまり進まず(さらに途中でワードが暴走しはじめ,タイムロス),「あーあ。今日は何だったんだろう? せっかくの休みだったのに無駄にしてしまった。いつどのようにこの作業をすれば何とかなるんだろうか・・・その時間をいったいどこからひねり出せばいいんだろう?・・・」といった,低調気味の自動思考連発で,暗い気分で帰宅しました。自宅に帰ると夫が会社の人たちを呼んでのホームパーティをしていて,私もそれに参加することになりました(当たり前か)。

それが面白かったんですよ! 何が面白かったって,ただひたすらおしゃべりすることが。アジェンダ(内容)は,すべて他愛もない話ばかりです。が,そんな他愛もない話を,アルコールを入れつつ,美味しいものを食べつつ,延々と話しているうちに,さきほどの暗い気分などはふっとび,「まあ,結構大変だけど,明日からまた気を取り直して頑張ればいいじゃん!」と自然に認知が変わっていました。

これまでの自分のたいしたことのない経験からも,ある空間,ある構造のなかで,他愛ないことについておしゃべりすることは,その直前まで「もうだめ」と思いつめていた心理状態を吹き飛ばしてくれるような気がします。

今日はたまたまのパーティでしたが,そのような場を定期的に持っている人は,安定したストレスコーピングを有しているわけで,さぞかしそれが有効に機能しているだろうと推察されます。そしてそれは,11の認知行動療法(CBT)による援助を受けることよりも,よほど生活文脈に沿った形で,むしろCBT的な援助を無意識的に得られていることが多いと思うのです。(浦河べてるの家の素晴らしさは,日常生活的にそのような場を濃密に,かつ構造的に提供していることだと思います)

というわけで,自分自身,楽しいおしゃべりの機会を増やしたいと改めて思いましたし,「CBT的機能を有するおしゃべりとは,どんなおしゃべりか」というテーマについて,自分も人とおしゃべりしつつ,ちょっとずつ考えていきたいと思います。

●今日のまとめの一言: ある構造,空間のなかで,気の置けない人たちとお気楽に交わすおしゃべりほど,ストレスコーピングとして効果的なものはない。そんなおしゃべりのできる場を一つでも二つでも確保することのほうが,有能なCBTセラピストを見つけるより,よほどCBT的な手助けを受けられる可能性が高い場合もある。

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2006年3月12日 (日)

【一人でできる認知療法・認知行動療法】その12:注意の転換 技法⑥

●自己注目することによるデメリット

  よく「自分をよく見つめましょう」とか「自分探しをしよう」などと,それがあたかも素晴らしいことように言われることがありますが,本当にそうなんでしょうか? ここでは自分に注意を向けることを「自己注目」と呼びますが(社会心理学の用語です),場合によっては自己注目は役に立つどころか,むしろその人の適応を妨げることが,諸研究によって明らかにされています。

  パターン①:その一つの例が,自分についての「反すう」です。「なぜあのとき自分はあんなことを言ってしまったんだろう」「どうして自分はいつもこうなんだろう」「私はダメな人間だ」「どうせ私は何をやってもだめなんだ」「どうして私は皆から好かれないんだろう」「自分はこれからどうやって生きていけばいいんだろう」・・・のように,自分のことについてネガティブなことばかりを考え続けていると,気分がますます悪くなることは,容易に想像がつきますね。自分のネガティブな面に注目し,それを考え続けるといった自己注目のあり方は,抑うつ的な人によく見られる思考パターンです。心理療法を受けに来られる方には,このような思考パターンを有する人が多くいらっしゃいます。

  パターン②:もう一つの例が,他者とのコミュニケーションの場で,「自分は相手からどう思われているのか」「自分が緊張していることが,相手にばれてしまったのではないか」「自分は相手に嫌な思いを与えているのではないか」「(自分が)相手に嫌われたらどうしよう」「(自分は)相手から嫌われてしまったのではないか」・・・のように,“相手にとって自分はどうであるか”という形で,自分にばかり注目してしまう思考パターンです。こんなふうに自己注目しながら,相手と話したり,人間関係を保ったりするのは,とてもしんどいことでしょう。心理療法を受けに来られる方には,このような自己注目のパターンをお持ちの人も多くいらっしゃいます。

  パターン①にせよパターン②にせよ,注意を自分に向け続けることで,さらに自分自身が苦しむ結果となっていることが,おわかりいただけるかと思います。そこで必要になってくるのが,そのような自己注目のパターンを変えること,すなわち自分以外のことに注目するように意図的に心がけることです。これが“注意の転換”です。

●【注意の転換】

  注意の転換は,意図すれば誰にでもできます。転換する対象は何でもかまいません。具体例を挙げましょう。

小さな気晴らしを,念入りに行う。例:丁寧にお茶をいれて飲む。お風呂に入って入念にシャンプーする。ひとかけらのチョコレートを大事に味わう。目をつぶって好きな音楽を堪能する。ひいひい言いながら,辛いものを食べる。

単純作業に没頭する。例:靴を磨く。皿洗いをする。野菜を切る。洗濯物をたたむ。プチプチ(クッキーの缶などに入っているシート)を1個ずつつぶす。ハサミを使って,いらない紙をできるだけ細かく切る。アイロンをかける。洗ったハンカチをアイロンを使わずできるだけきれいに畳む。

少しだけ頭を使う作業をする。例:ひとりしりとり。計算(1007939378686779・・・というように,ある一定の規則に沿った計算を頭のなかで行う,あるいは紙に書いて行う)。「あ」で始まる単語をできるかぎり案出する。

視覚的作業を行う。例:周囲を見渡して「赤い」ものをできる限り見つけ出す。周囲を見渡して「四角い」ものをできる限り見つけ出す。

  他にもありますが,このぐらいにしておきます。要するに,目の前の,あるいは頭の中の,小さな作業に注意を向けて,その注意を維持するということが重要です。何かものすごいことをする必要はないのです。人が一度に使える注意の用量は決まっていますので,とりあえずそれを自分ではなく,別の小さなことに向け続ければ,ネガティブな自己注目の悪循環から脱け出すことができるのです。

●コミュニケーションしている間の【注意の転換】

  他人と話している最中に,ネガティブな自己注目が起きてしまった場合は,上述の対処法は使いづらいですね。その場合にできることを,これも簡単に紹介します。

相手の容姿を点検する

相手の声を点検する

相手の表情を点検する

話題に注意を向ける

場(状況)に注意を向ける

  要するに,「自分がどう見られているか」,「相手にとって自分はどうか」ということばかりに注目するのではなく,相手や話題や場(状況)に注意を分散させるということです。気分よく自然に対話しているときには,このような分散が努力しなくてもできているのです。が,他者と話しているときに自分に注目しすぎてしまうパターンが身についてしまった人は,多くの人が普通にできている注意の分散を,あえて意図的に行う必要があります。慣れてくれば,自己注目ばかりして肝心の話題にも集中できなかった自分が,ずっと楽な気持ちで他人と対話できることを発見できるでしょう。

●今日のまとめの一言:ネガティブな自己注目のパターンによって,つらい思いをすることが多い人は,自己注目に気づいたら,注目の方向を自分以外の対象に転換してみよう。注意の転換を意図的に繰り返しているうちに,結果的にネガティブな自己注目パターンも緩和されるだろう。

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2006年2月28日 (火)

【認知療法・認知行動療法】コラムその12:モラルハラスメントにCBTはどう役立つことができるか?

  先週の金曜日,東大で開催された「職場のハラスメントをなくすために」という国際シンポジウムを聴きに行きました。主催者の一人は,過労自殺裁判で有名な川人博弁護士であり,第1部の講演者は,『モラルハラスメントが人も会社もダメにする』(紀伊国屋書店,2003年)の著者であるマリー=フランス・イルゴイエンヌ氏(フランス人の精神科医)でした。イルゴイエンヌ氏は,ある種の嫌がらせ(ハラスメント)に「モラルハラスメント」と命名し,多角度的にこの問題について論じているパイオニアでもあります。

  私は認知行動療法(CBT)を専門としておりますが,それと関連して,組織におけるハラスメントとその予防や解決についても大変興味を持っており(ボチボチ研究も始めてます),このシンポジウムは前から非常に楽しみにしてました。雨の中,他の仕事をほっぽりだして駆けつけましたが,行ってよかったです。

  主な収穫は2つです。

①私がボチボチ仲間と研究を始めている「職場における自己愛性パーソナリティ傾向をもつ上司によって苦しめられる部下」という現象が,イルゴイエンヌ氏の定義するモラルハラスメントの一部と見なせることがわかったこと。

②特に欧米諸国で整備されつつあるモラルハラスメントに関する法律の成立過程がよく理解できたこと。

  ①については本記事では省略します。②については,こういうことでした。まずイルゴイエンヌ氏のような現場の臨床家が,被害者の診察を続けるうちにモラルハラスメントという現象に気づき,それに名前(まさに「モラルハラスメント」という名前をです)をつけ,世間に問いました。するとモラルハラスメントの被害者たちが,「自分が体験したことはまさにモラルハラスメントだったのだ」と気づき,被害者団体を作ったそうなのです。被害者団体は次第に力を持ち,モラルハラスメントを法制化して加害者を取り締まるよう,政治に働きかけました。その力がだんだん増大し,最終的には罰則つきの法律が制定されました。

  イルゴイエンヌ氏は,自分のしていることがモラルハラスメントであると気づけないような人は,結局法律で罰するしかない,とおっしゃっていました。それは事実だと思います(モラルハラスメントだと気づけるような人は,そういうことはそもそもしないでしょうから)。とすると,やはり法律を作っていくという現実的なパワーをどう形成するか,という非常に現実的な問いが必要になると思います。

CBTはこういう視点をともすれば忘れがちです。が,個人の認知や行動に焦点を当てると同時に,苦しんでいる人の環境的ストレッサーそのものに焦点を当てるという視点を,常に保つよう意識しつづける必要があるかと思います。「認知の歪み」を修正することも時には必要かもしれませんが(個人的には「認知の歪み」という言葉は好みませんし,使いません),その前に,その人はどのような環境で,どのような他者とのかかわりで,どのようにその認知が生じたのか,ということをまず検討するべきだと思うのです。

  最近とくに強くそのように感じます。そう思うと,古典的な行動科学の概念である「刺激-反応」理論が,やけに新鮮に思われてくるから不思議です。

●今日のまとめの一言: CBTの基本モデルの出発点は,あくまでも「環境(状況,社会的関係など)」である。苦しんでいる個人の認知や行動の変容に焦点を当てる前に,苦しんでいる個人を取り巻く環境的ストレッサーに,まず目を向ける必要がある。

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2006年2月 3日 (金)

【認知療法・認知行動療法】コラムその11:対話によって行われる認知の再構成

  新年に入り,「備忘録的に当ブログを使うということで,更新頑張ります」などと書きましたが,全然滞ってます(笑)。しかし私がブログを更新しないからといって,誰かに迷惑をかけるわけではないので,こういうときは「なかったことにする」というコーピングを用いて,ブログそのものの存在を「なかったことに」していたのでした。「やってもやらなくても誰にも迷惑をかけない」事象が滞っているとき,この「なかったことにする」というコーピングは強力です。類似のコーピングとして,部屋の片隅にたまっている埃の山を「見なかったことにする」というのがあります(笑)。

  さて,更新が滞っている理由の一つに,ある翻訳の仕事が進まずに,毎晩苦しんでいるというのがあります。こちらはさすがに「なかったことにする」わけにはいかないので,進まないながらも毎晩帰宅してから寝る直前まで頑張るのですが,おそろしいほど進まない。その「おそろしいほど翻訳の仕事が進まない」という状況に対して,さまざまなネガティブな自動思考が生じるのです。

  それを超シンプルな認知再構成法の図式に当てはめるとこうなります。

【状況】おそろしいほど,翻訳の仕事が進まない

【自動思考】「英語が得意なわけでもないのに,翻訳の仕事なんか引き受けた自分が馬鹿だった」「なんでこんなに遅々として進まないのだろう。よほど私はこの仕事が向いていないに違いない」

【気分】憂うつ,自己嫌悪

【行動】ぐずぐずしながらも,何とか作業を続ける。「もうやりたくない!」と駄々をこねる。

  というわけで,この数ヶ月間,苦しみながら亀の歩みよりももっとのろのろと仕事を続けてきていたのですが,先日,私が非常に尊敬しているCBTの大先生と,ある食事会で隣り合わせに座る機会がありました。その先生(仮にA先生としておきます)が,本来お好きなお酒をあまり召し上がらないので,「どうしたのですか?」とお聞きしたところ,「最近,翻訳の仕事に苦しんでおり,先日とうとう消化器の検査を受けた」とおっしゃるのです。その後,“翻訳の苦しみ”についてA先生と大いに盛り上がったのですが,A先生とこの話をした後,私の認知は劇的に変わりました。

【状況】おそろしいほど,翻訳の仕事が進まない

【新たな思考】「A先生だって胃に穴があくほどなんだから,翻訳仕事というのは大変なんだ」「A先生だってあんなに苦しむと言うのだから,私ごときがスイスイと翻訳を進められるわけではないのだ」「A先生だって何度もやり直しするというのだから,私ごときが何度もやり直しするといのは当然のことなんだ」

【気分】軽いあきらめ

【行動】ぐずぐずしながらも,何とか作業を続ける

  A先生と話をしたことで,翻訳に対する私の認知が自然発生的に再構成されたのです。「おそろしいほど仕事が進まない」という状況や,「ぐずぐずしながらも,何とか作業を続ける」という行動は,全く変わりありませんが,新たに再構成された認知のもとで,さほど憂うつ感や自己嫌悪を感じることなく,軽いあきらめ程度の気分で,毎晩作業ができるようになったのです。

  認知再構成法は,別名「コラム法」と呼ばれるぐらい,表などのツールを使って行うもの,と考えられておりますが,やはり基本は対話なのだと,今回の自分の体験を通して再確認しました。表を使ってシコシコと書き込んでいくのも,それはそれで効果的だったり,楽しかったりするときもありますが,やはり誰かと対話をするなかで,新たな認知が再構成されるという流れのほうが自然ですし,効果的だと思います。そもそもそれが多くの健康な方々が無意識的に実施している認知再構成法だと思うのです。

●今日のまとめの一言: ツールを使ってシコシコと作業するだけが認知再構成法ではない。人と対話する中で,おのずと認知が再構成されるような流れが自然だし,効果的である。

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2006年1月13日 (金)

【認知療法・認知行動療法】コラムその10:モデルとして機能するセラピストだといいんだけど・・・

  前回に引き続き,スポーツクラブのネタを。

  私はエアロビクスのレッスンに出るのが大好きなんですが,インストラクターにも様々な人がおられまして,いろいろと考えさせられることがあります。

  よく感じるのは,「『こうなりたい!』と思わせてくれるようなインストラクターがいいな」ということです。動き(踊り)の組み立て,キュー(手がかり/プロンプト)の出し方,1回のレッスンの構成といった技術的な上手い下手はもちろん重要ですが,インストラクター自身の魅力といいますか,インストラクターが発するエネルギーといいますが,うまく言えないのですが,とにかく,「素敵だな。この人のレッスンに出ていると,この人みたいになれるのかな」と思わせてくれるようなインストラクターは魅力的です。(「この人みたいになろう」と本気で追求するということではなく,「この人が体現しているようなあり方を,私も自分の領域で実現したい」と思わせてくれる,ということです。うまく表現できないけれど)

  逆の例を出せば,エアロビクスのインストラクターにも,インストラクターという仕事や我々参加者をなめてかかっているような人がたまにいますし,あるいは見るからに活力のない不健康そうな人がたまにいて,そういう人のレッスンって本当に説得力に欠けるのです。そういう人のレッスンに出ると,むしろ心身のエネルギーが奪われるというか,ダレてしまいそうな気がして,かえってストレスが溜まったりします。

  我々の仕事であるセラピーも似たようなものだと思います。セラピーをする張本人(セラピスト)が,見るからに不健康だったり不機嫌だったりストレスにやられているようであったりするのは,やはりクライアントさんに対して説得力に欠けると思うのです。まあそれはエアロビクスやサイコセラピーに関わらず,「計算ができなさそうな算盤の先生」「歩き方がおかしいウォーキングの先生」「電車が大嫌いなように思われる電車の運転士」「動物を憎んでいそうな動物園の職員」・・・というように,考え出せばいくらでも例が挙げられそうですが。

  ぐちゃぐちゃ書きましたが言いたいことは,サイコセラピストは,なかでも特に「セルフマネジメントを重視するCBTのセラピスト」は,やはりセルフマネジメントをしっかりやって,「ああ,CBTを実践すると,この程度には元気に生きられるんだなあ」とクライアントさんに思ってもらえるようなモデルであるべき,もとい,少なくとも私はそのようなモデルとして機能したいと思います。

  ただ,あまり完璧なモデルである必要はないと思います(どっちみち,私には無理ですが)。「誰だって生きていればいろいろあって大変だけど,自分でちょっと工夫すれば,何とか,そこそこ,ほどほどに,ぶっ倒れない程度には,自分の心身の状態を保てるんだな」ということを,ある程度の説得力をもって示せるようなモデルであるぐらいがちょうどいいのではないかと思います。また,CBTの考え方や技法を使って,その程度には自分のコンディションを保っていければいいなあ,とCBTのセラピストとしては考えています。

  以上の話は実は「セラピストの自己開示」にも関わってくることだと考えています。それについてはそれなりに書きたいことがありますので,また後日(例によっていつになるかは不明・・・笑),書いてみたいと考えております。

●今日のまとめの一言: CBTのセラピストは,ほどほどに心理的マネジメントが上手な“モデル”として機能するのが理想的!

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2006年1月 9日 (月)

【認知療法・認知行動療法】コラムその9:骨盤を立てる!肋骨を絞る!

  正月休みの間に,久々にスポーツクラブに行き,普段は参加したことのないプログラムにいくつか参加してみました。そのうちの一つに“マットコア”というレッスンがありまして,これは身体のコア(中心部,深遠部)を引き締めるためのレッスンで,具体的に言うと,マットに横になって,横隔膜を使った腹式呼吸に合わせて腹筋の深部をギリギリと締め上げるために,ゆったりとした動きを繰り返す,というものでした。

  初体験のレッスンはどれも新鮮で楽しいものですが,今回参加したレッスンは,インストラクターの教示が非常にわかりやすく,リラックスとはどういうことか,ということを改めて認識させてもらいました。

  もともと私は身体に興味があり,認知行動療法(CBT)でもリラクセーション法を多用することから,リラクセーションに関するトレーニングは,様々なワークショップに参加するなどして積んできてはいるつもりです。が,こうやって新たなレッスンに参加するたびに,また新たな気づきが得られ,とても嬉しいものです。今回のマットコアのレッスンで一番面白かったのは,「骨盤を立てる」「肋骨を絞る」というワークでした。寝そべっていても,マットに胡坐をかいていても,とにかく骨盤をまっすぐに立て,その上で肋骨を絞るように横隔膜近辺の筋肉を内側に収縮させることで,「身体が立っている」という感じをしっかりと得られます。すると特にリラクセーションを意識しなくても,身体の他の部分,特に肩や腕や背中のあたりが気持ちよく脱力するのです。

  リラクセーションを学び,臨床で実践し始めてしばらくして,私が一番疑問を抱いたのは,「“リラックス=脱力”といえども,身体そのものが“しっかり”していなくては,脱力できないのではないか」ということでした。さらにクライアントさんと腹式呼吸法や筋弛緩法を一緒に練習しているうちに,もともとの身体がしっかりしている人は脱力が上手ですが,そうでない人はなかなか上手に力を抜けないことに気づきました。それは自分自身の身体のことを振り返ってみてもそう思います。運動をさぼっていて,たるんだ身体をしているときは,リラクセーションもへたくそだったように思われます。体幹部のトレーニングを再開し,体をしっかりと縦に立てることが再び意識的にできるようになった後のほうが,上手にリラックスできるようになったように思います。

  というわけで,リラクセーション法をより効果的に練習するために,脱力の前に“体幹部をしっかりと立てる”ことに興味を抱くようになってから,すでに何年も経っているのですが,今回,マットコアのインストラクターに,実習と共に言葉で「骨盤を立てる」「肋骨を絞る」という表現を教わり,さらに一つ,何かをつかめたような気がしました。

  といっても「つかめたような気がする」という程度ですので,今後まずは自分の身体を使って,「骨盤を立てる」「肋骨を絞る」ということがどういうことなのか,どのようにすればそれがうまくできるのか,という点を,日々練習してみたいと思います。その練習によってさらに何かをつかみ,CBTにおいてクライアントさんとリラクセーション法を一緒に練習する際に,より効果的なものを還元できるといいなと思います。

  ちなみに「身体をしっかりと縦に立てる」というのは,臨床動作法における知見でもあると思います。が,いかんせん動作法については,私自身あまりきちんと勉強しておらず,できれば一度,みっちりとトレーニングを受けてみたいとも考えております。

●今日のまとめの一言: コアな部分をしっかりさせてこそ,人はリラックスすることができる(のではないか)。

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2006年1月 3日 (火)

【認知療法・認知行動療法】ひとりごと その8:2006年 年明けのご挨拶

  新年あけましておめでごとうございます。

  昨年中盤にこのブログを開設しまして,当初はなかなかいいペースで新記事をアップしていたのですが,途中から完全に息切れ状態となり,今に至っております。年が変わって「よし,今年は気を取り直してどんどん新しい記事を掲載します」と宣言したいところですが,溜まりに溜まっている仕事のことを考えるとそうもいかず,スローペースでボチボチと更新していくというあたりを,現実的な目標としたいと思います。

  ただ,ちょっとここらで方針を転換することにします。

  ブログ開設時は,一つ一つの記事を,認知療法・認知行動療法(CBT)やストレスコーピングの読み物として,それなりに完成度の高いものを書き上げてからアップするというつもりでおりましたが,そういう高い目標を自分に課す限り,なかなか更新できないという状況になりましたので,もうちょっと気楽に,自分のためにCBTに関する備忘録を作るぐらいのつもりで更新していこうと思います。そのぐらいのつもりのほうが,むしろ本音をちゃちゃっと書けて良いのかもしれません。

  というわけで,今年は「CBTとストレスコーピングに関する備忘録」というテーマで適当に書いていくことにいたしますが,気軽にコメント等頂戴できますと嬉しいです。

当ブログを離れて考えると,自分自身の今年のテーマは,第1に,「溜まっている仕事を今年中にしっかりと終わらせる」です。特に翻訳関係が,ひどいことになっておりまして・・・。関係者の皆様,本当に申し訳ございません。全て,何とか2006年中にケリをつけたいと思います。もとい,ケリをつけます。つけますとも・・・!

  2に,いくつかの学会で今年も発表その他を企画しておりまして,それはそれで最善を尽くすとして,特に某学会で予定しております「べてるとCBTに関する企画」を成功させることです。

  3に,昨年はちょっと働きすぎましたので,今年はもう少しスケジュールをゆるやかなものにして,それを維持したいと思います。臨床や研究の仕事に限らず,仕事というのは,「達成する」ことも重要ですが,「維持する・継続する」ことも重要だと思います3年間死ぬ気で頑張って何かを達成するよりも,めりはりをつけながら,ときにはさぼりながら,30年間仕事を続けることのほうが,職業人としてはむしろ価値のあることなのではないかと思うのです。そもそも「価値」とか何とか言っている前に,生活するための収入を維持する必要がありますし・・・。というわけで,心身の健康を損ねては元も子もないので,とにかく今年は,できるだけ良い仕事を長く続けるための最適のペースを身につけたいと考えております。

  以上,年明け早々,だらだらとした文章になってしまいましたが,まあとにかく,今年もCBTやストレスコーピングについて大いに学び,研究し,仲間と語り合い,臨床現場で実践し,多くの方々と共有できるような活動を目指しますので,どうぞよろしくお願いいたします。

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2005年12月29日 (木)

【認知療法・認知行動療法】ひとりごと その7:第5回日本認知療法学会印象記②

前回の印象記のつづきです。

 “第三世代”のCBTについての話がちらほらと・・・最近,“マインドフルネス”と“アクセプタンス”といった,いわゆる“第三世代CBT”の話を聞くことが多くなりましたが,当大会でもそういった発表がちらほらとありました。第三世代CBTそのものについて,私自身いろいろと考えるところがあり,これはまた別記事にてぜひ書きたいと思っておりますが,第三世代CBTに共通して見受けられるのは,Beckの認知療法が基礎心理学ともリンクしてその幅を広げていることを,あえて「なかったこと」にしているような感じがするということです。とはいえ,第三世代CBTのそれぞれの立場やアプローチで指摘していることは,どれもとても重要なことで,これまでのCBTが強調し損ねてきた側面でもあると思いますので,それを「新たなCBT」という見せ方をするか,「これまでのCBTの再統合」という形でまとめていくのか,そういう分岐点に来ているように思われました。

Beckの認知療法についての誤解もちらほらと・・・上記のとおり,CBTそのものの幅の広がりをきちっと認識し,研究や臨床に生かしている専門家と,Beckの認知療法,というよりBeckが構築した認知再構成法という技法のみを「認知療法」とみなしてしまっている専門家(あえて私はそれを「誤解」を呼びたい)と,やはり混在しているように見受けられました。専門学会においてすらこのような状況ですから,そうでないサイコロジストや医師の間に,このような誤解が根強くあるのは当然といえば当然かもしれません。私としては,まずこちらの誤解を正常化した上で,上記「第三世代」問題に手をつけたいと思っていますが,そうなるともう一度お父さんBeckの文献を読み返す必要があり,「そんな時間はない!」という強力な自動思考が即座に頭に浮かぶのでした(笑)。

このあたりの記事は,以下を参照していただけると幸いです。

http://cbt.cocolog-nifty.com/coping/2005/05/index.html

【認知療法・認知行動療法】コラムその2:新世代の認知行動療法①

【認知療法・認知行動療法】コラムその2:新世代の認知行動療法②】

(ナンバリングがちょっと変ですが・・・)

 復職支援のプログラムについてのセッションがあった!・・・EAPなどの復職支援プログラムにおいてCBTを活かそうという動きが盛んですが,そのような発表だけで5つもあり,1つのセッションが組まれていました。これは当学会では初めてのことで,CBTの広がりが医療だけでなく産業場面にも確実に広がっていることを参加者に印象付けたことだと思います。

 疾患毎のプログラム作成と,幅広い対象への一般プログラム作成の両面が必要・・・というわけで,今回の学会に限って考えたことではありませんが,この大会に参加して改めて感じたのは,①医療領域,とくに精神科領域において,CBTが高度に専門化していく傾向,②医療領域以外のたとえば産業領域,学校領域,開業領域などにおいて,CBTが幅広くそして柔軟に適用されていく傾向,の二方向に向かう傾向が,今後も伸びていくだろうということです。後者の傾向は,多くのユーザーにCBTを役立ててもらうためには非常に重要なことで,多領域においてCBTを実践できるサイコロジストが増えていくことを私は願っております。そのためにはトレーニングの機会が増えることがとにかく必要で,そこが現時点での大きな泣き所でもあるのですが・・・。ま,悲観的にならず,現状を見据えて,私自身,出来る範囲で来年も頑張っていこうかと考えております。

  ちなみに来年の認知療法学会は107月~9日に東大の駒場キャンパスで開催されます。上記のトレーニングの機会を幅広く提供するため,ワークショップのプログラムをこれまでよりも充実させるという計画が立てられているようです。ぜひ多くの対人援助職の方々に参加していただき,いろいろと議論ができるといいなあ,と思っています。

2006年の第6回日本認知療法学会につきましては,よろしければ下記ウェブサイトをご参照ください。

http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/tanno/

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2005年12月15日 (木)

【認知療法・認知行動療法】ひとりごと その6:第5回日本認知療法学会印象記①

  このブログを始めた頃は,今年後半がここまで忙しくなるとは予想できず,たま~にしか更新できなくなってしまいました。最初は「更新しなくちゃな~」とストレスを感じていたのですが,徐々に自分がブログをやっていることを忘れるようになり,ほとんど「なかったことにしている」状態です。ちなみに,「なかったことにする」というのも,場合によっては効果的なストレスコーピングです(自己弁護)。

  さて名古屋で開催された日本認知療法学会の第5回大会に参加してきました。思いつくままに感想を述べます。

 ニューロイメージング研究の面白さに目覚めた!・・・私がこの方面の研究をすることはありえませんが(できない),ニューロイメージング(脳神経画像)から精神疾患における諸現象をとらえたり,CBTによる変化をとらえたりするといったシンポジウムを聴き,ワクワクしてしまいました。特にCBTの再発予防効果が,ニューロイメージング研究によって検討可能であることを知り,CBTに対して心理学的説明ではない別の説明がありうるんだということがわかって非常に興味深かったです。それにしても演者の先生方からポンポン出てくる脳の各部位の名称からして,私には「???」ということが多く,これではいかんと思いました。最先端の情報を入手するまではいかないにしろ,このような学会で講演を聴くときに,用語でつまずかずに済む程度には勉強しておかなければと思ったのでした。

 小規模学会の良さを改めて感じた・・・小規模と言っても,毎年会員も,学会参加者も増え,第12回頃に比べると「人が溢れている!」という感じではありますが,それでも各プログラムの最中や懇親会のときに,いろいろな人とフェイス・トゥ・フェイスで話せる雰囲気は今回も保たれていました。興味深い発表をした人にさらに発表について尋ねたい場合(そして興味深い発表が今年もいくつもありました),こういう雰囲気はとても貴重だと思います。今年も多くの方とあれやこれやと議論ができて,とてもうれしかったですし,刺激にもなりました。

(次回つづきを書きます)

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2005年11月17日 (木)

【一人でできる認知療法・認知行動療法】その10:曝露法(エクスポージャー) 技法⑤

  認知行動療法(CBT)についての記事を久しぶりに書きます。

●“心配思考”の問題点=安全確保のための回避

  俗に「心配性」とよく言われますが,心理療法やカウンセリングを受けに来る人には,自分自身の不安や心配に巻き込まれて,身動きが取れなくなってしまっている人が多くいらっしゃいます。過剰な不安や心配に陥っている人の思考の特徴は,「もし・・・だったらどうしよう」→「そうなったら,大変なことが起きるに違いない」というパターンがみられることです。

たとえば,混んだ電車内で少し息苦しくなったことに気づいたとします。普通なら,「あれ,ちょっと息苦しいな。嫌だな」と少し考えはするものの,自然に気がそれて,そのうちその息苦しさを忘れてしまうことが多いのですが,心配しすぎのAさんは,「もしこのまま息苦しさが続いたらどうしよう」→「そうなったら,息ができなくなって,呼吸困難で死んでしまうに違いない」と考えてしまうのです。

  または,人前で自己紹介をしなければならず,少し緊張したとします。普通なら,「ああ,自己紹介って緊張するから嫌だな」と少し考えはするものの,緊張しながらも何とか自己紹介を終えて,自己紹介時の緊張感については忘れてしまうことが多いのですが,心配しすぎのBさんは,「もし皆の前で自己紹介しているときに,緊張で声がうわずってしまったらどうしよう」→「そうなったら,自分が緊張していることが皆にバレて,皆から馬鹿にされてしまうに違いない」と考えてしまうのです。

  AさんもBさんも,「もし・・・だったらどうしよう」→「そうなったら,大変なことが起きるに違いない」という“心配思考”に巻き込まれています。この心配思考の問題点は,心配しすぎがその後の不適応(問題)を招く可能性が高いということです。たとえばAさんは,「息ができなくなって呼吸困難で死んでしまう」と,息苦しさについて心配しすぎたために,かえって不安緊張感が高まり,結果的に息苦しさがひどくなり,パニック発作を起こしてしまうかもしれません。その結果,今度はパニック発作を心配することによって,混んだ電車に乗れなくなってしまうかもしれません。またBさんは,「緊張して声がうわずったらどうしよう」と心配することでかえって不安緊張感が高まり,自分の声に気を取られながら自己紹介することになるでしょう。すると自分の声の小さな震えやうわずりに気づき,「ああやっぱり声がうわずった。皆に『気の小さい奴だ』と思われたに違いない」と確信し,皆とあまりしゃべったり目を合わせたりしないようにして,新しい人間関係を築くことを避けてしまうかもしれません。

つまりAさんは,自分の息苦しさを心配しすぎることによって,パニック発作を引き起こし,今度はパニック発作を心配しすぎることによって,電車に乗れないという問題に陥ってしまいましたし,Bさんは,自分の声のうわずりを心配しすぎることによって,新たな人間関係を築くチャンスをふいにしてしまったわけです。AさんとBさんに共通してみられる問題は,“安全を確保するための回避”です。Aさんは自分の身体の無事を確保するために電車を回避し,Bさんは皆から馬鹿されないという状況を確保するためにコミュニケーションを回避します。そしてこの“安全確保のための回避”によって,AさんもBさんも,かえって自分が不自由な思いをする羽目に陥ってしまうのです。

●【曝露法(エクスポージャー)】

  上で述べたように,AさんやBさんのような,過剰な“心配思考”に巻き込まれた結果,自分の安全を確保するために回避をしていて,その回避によって不自由な暮らしを余儀なくされている人は,どうしたらいいのでしょう? 素朴に考えると,選択肢は2つあるように思えます。1つ目は「心配をやめること」,2つ目は「回避をやめること」です。しかし実は1つ目の「心配をやめること」というのは落とし穴です。一見,心配さえしなければいいじゃないかという気がしますが,実はAさんもBさんも,心配をやめるために,安全確保を目指し,回避が起きているというのが真相なのです。認知行動モデルに関する基礎研究によって,「人は心配することをやめようとすればするほど,回避しつづけようとし,むしろそれがさらなる心配を生む」ということが明らかにされています。つまり上記の選択肢のうち,「心配をやめること」というのは,効果的でないどころか,もともとの心配をさらに強めてしまうという,おそろしい選択肢だったのです。

  ということは解決策はただ1つ,「心配することをやめようとせずに,回避をやめること」,すなわち「どんなに心配になっても,その心配を抱いたまま,これまで回避していた場所や場面に突入し,本来の目的を遂げること」です。これがCBTで言う曝露法(エクスポージャー)です。Aさんにとって必要な曝露法は,呼吸困難やパニック発作を心配しながら混んだ電車に乗ることであり,Bさんにとって必要な曝露法は,声がうわずったり馬鹿にされることを心配しながら皆と話をすることです。そして曝露法によるチャレンジを続けているうちに,結果的にAさんの心配もBさんの心配も軽減されていくことでしょう。言ってみれば曝露法とは,【あえて心配なままでいるうちに,気がついたら心配じゃなくなっていることを狙う逆説的な技法】であると言えましょう。「曝露」とは「さらす」という意味です。要は自分の心配を止めようとするのではなく,心配に自分のすべてを「さらしてしまえ!」という技法なのです。

●「心配→回避」の悪循環と,「曝露」のメカニズムを知ることが大事

  強迫性障害やパニック障害,社会不安障害といった,いわゆる「不安障害」に該当する障害には,この曝露法が非常に効果的であることが確かめられています。が,「言うは易し,行うは難し」で,実際に曝露法にチャレンジしてもらうためには,さまざまな臨床的工夫が必要になる場合が多くあります。しかしクライアントさんのなかには,こちらが「心配→回避」の悪循環と,「曝露」のメカニズムについて,丁寧にかつしっかりと説明するだけで(心理教育),すんなりと曝露法にチャレンジし,成果を上げることのできる人もけっこう多くいらっしゃいます。いずれにせよ曝露法を成功させるためには,自分の心配しすぎの悪循環をよく把握し,曝露のメカニズムを十分に理解するということが不可欠で,この記事が不安障害を抱えていらっしゃる人,およびそのような方を援助している人の参考になれば幸いです。(またいずれ機会があれば,もっと詳しく説明してみたいと考えています)

●今日のまとめの一言: 心配をやめるのではなく,心配な状態にあえて自分をさらし,今まで回避していた場所や場面にチャレンジするのが,CBTにおける【曝露法(エクスポージャー)】である。曝露法の効果を上げるためには,心配→回避による悪循環と曝露法のメカニズムについて,当事者が理解することが不可欠である。

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2005年10月31日 (月)

【認知療法・認知行動療法】ひとりごと その5:とりあえず「発信」して,仲間を募る

  多くの方々がそうだと思いますが,私も自分の興味のある事柄については,自分自身でとことん調べ,エキスパートに教えを請い,その上で自分の乏しい脳味噌をふりしぼってとことん考え,自分なりのとりあえずの結論を出してみたいと切望しています。しかし興味のあることって,大抵常に複数ありますし,どれ一つとっても,ちょっと調べてみるだけでその背景に広大な研究や実践の歴史があることがわかってしまうわけで,根がしつこい私は,何もかもを徹底的に自ら調べ上げて,咀嚼したい衝動にかられるのですが,限りある人生,当然そうはいきませんよね。(「ね」って,誰に同意を求めているんだか・・・笑)。

  ここ数年,とくにこの23年の間,自分の中心的な専門分野でないテーマについて発言を求められることが増えており,最近あった学会でも,そのような機会がありまして,準備をしているときには,「どよーん」と重たい気分にとらわれることもあったのでした。「どうしてこんなに重たいんだろう」と自問してみたのですが,一番大きいのは,「まだまだ勉強や考察が足りてないのに,こんな中途半端なことを,人前でしゃべっちゃって(あるいは活字にしちゃって)いいんだろうか?」という“恐れを伴う認知”でした。「調べ足りていないことが,まだまだあるんじゃないか」,「もっと自分なりの論考を熟成させたい」,「あと1年あれば,もうちょっとマシな考察ができそうなのに」・・・etc,あれこれ考えては逃げたくなっていたのですが,一度引き受けてしまったことから逃げるほどの勇気はないので,出来る限りの準備をして原稿を書いたり,発表に臨んだりして,とりあえず一つ一つ終えていき,過去にこだわらない私としては,終わった瞬間から,「ああ,とりあえずやってよかった。面白かった!」と能天気に考え,反省すらすることなく,忘れてしまうのでした。

  で,このような体験を繰り返しながら思うのは,たとえ熟成していない考えでも,活字化や発言の機会を与えられることによって外在化することで,誰かから何らかのフィードバックをもらうことができるって,本当にありがたいことだなあ,ということです。フィードバックしてもらうと,それが肯定的であろうと否定的であろうと,結局はとても嬉しいんですよね。それにある程度調べても自分の見方が定まらない事象というのは,それだけ多様な考えを引き起こしやすいものであって,だからこそ他人のフィードバック,すなわち多様な視点からのコメントがとても興味深かったりするのでした。

 と,ここまで書いていて思いましたが,認知行動療法をやっている私は,「傾聴中心のセラピー」に満足しなかったクライアントさんと出会う機会が多くありますが,そのようなクライアントさんがおっしゃるのは,「(これまで受けたセラピーは)ただ話を聴いてくれるだけで,それ以上何もしてもらえなかった」という不満です。非常にもっともな不満だと思います。自分が体験したこと,感じたこと,思ったこと,望んでいることを,自分のお金と時間を使って専門家に話しているのに(非常に勇気の要ることだと思います),それに対してセラピストからフィードバックがない(セラピストがフィードバックしているつもりであったかどうか,ということはこの際無視します。少なくともクライアントさんは「フィードバックがない」と判断したのです)ということに不満を感じるのは,あまりにももっともなことだと思うのです。(傾聴されるだけで展開するセラピーがあることは認めます。私自身,そういうセラピーを実施することもあります。が,それは「傾聴中心のセラピーでやっていきましょう」という“メタコミュニケーション”が実施されたうえで行われるべきことだと思います。)

 見知らぬ他人であるセラピストに自分のことを話すクライアントさんにしろ,自信のないことを半ば公の場で話す私にしろ,それには多大な心細さが伴うわけで,話した後でもやはりその心細さが続くわけです。そんなときに,「あなたの話したことについて,こんなふうに思ったんだけど」と,フィードバックしていただけると,それがどんな内容であれ,「ちゃんと聞いてくれて,それに対してコメントしてくれている」ということ自体に,非常にホッとするのです。ということを,今回の一連の発表を終えて,改めて実感しました。そして,クライアントさんにとってより援助的に機能するように,自分のフィードバックスキルを磨いていきたいと思いました。

 ともあれ研究者としては,自分の取り組んでいきたいテーマについては,自分で納得のできるほどに論考が進んでいなくても,勇気を出して,それを公の場で提示するといった,より多様なフィードバックを受けるための機会を自ら作り出していくことが重要だということが,今回の学会を通じてよくわかりました。気が小さい私にとっては,そう気楽にできることではありませんが,このことを忘れないでいたいと思います。

●今日のまとめの一言: 興味のあることについては,できれば自分でとことん調べ,とことん考え,自分なりの「素晴らしい結論」を出してみたいものだが,そんな夢のようなことを待っていたのでは,人生が終わってしまうだろう。たとえ中途半端な論考でも,批判覚悟で思い切って発信し,フィードバックをもらう,そういう場を自ら作っていくことが重要である。

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2005年10月 9日 (日)

【認知療法・認知行動療法】ひとりごと その4:自ら人に会いに出かける

  9月の最終週に,べてるの「当事者研究」の研究をスタートさせるために,北海道浦河まで久々に出かけてきました。詳しい報告は後日ということにして(その「後日」がいつになるかは,すみません,不明です),これが3度目の浦河訪問なのですが,毎回感じていることをここで書いてみたいと思います。

 それは,「会いたい人,興味のある人には,どんどん自分から出かけていって会いに行く」ということの大切さです。確かにべてるの人たちは今ひっぱりだこで,全国の講演会でお会いしたり,話を聞いたりすることができますが,やはりべてるの活動が実践されている「場」は,浦河にあるわけでして,本当に興味があれば,やはりその「場」をひっくるめて見てみたい,参加してみたい,と思いますし,実際にそうしてみると,そうしてみなければ決してわからなかったであろう「場」の持つ力が見えてくるのです。

 と書きつつ,ほんの数日間滞在しただけで何がわかる?という声も,聞こえてくるのは当然で(そう自分に突っ込んでいるのは,他ならぬこの私ですが),それは本当にその通りだと思います。だからと言って,「本当に全てを理解するために」という目的で,自分の「現場」を放って,興味ある他人やコミュニティの「現場」にいつまでも入り浸るというのも,また別の意味で問題があり,だったら限られた期間であれ,とりあえずその場に飛び込んでみる,ということが,今の自分にできる精一杯のことかな,と思います。

 ともあれ,真に会いたい人と出会う,というのは,その人が存在している「場」に飛び込んでいって,その「場」にいるその「人」に出会う,ということだと思いますので,べてるだけでなく,今後も興味をもった人やコミュニティには,自分からどんどん出かけていって「出会い」を作っていきたいと思います。

 そこでふと思うのは,では今私がやっているような「面接室内認知行動療法」は,いったいどうなんだろう?ということです。これは今に限らずときどき自問することです。クライアントさんは自分の生活の場の中で,いわゆる「主訴」を抱えているのであって,CBTの場合,その主訴を,その場を含めて極力リアルにアセスメント(ケース・フォーミュレーション)しようと努めますが,「百聞は一見に如かず」というように,セラピストが出かけていって,クライアントさんの主訴が成立している場を共有させてもらった方が話が早いんだろうな,と思うケースは多々あります。またこれまで精神科デイケアや企業における産業精神保険など,コミュニティワークを実施する場で仕事をしていたときには,私はもともと落ち着きがなく,フットワークが無駄に軽いほうなので,むしろどんどんケースに入っていって,調整するような仕事をするほうが,役に立っている気がしました(あくまで「気がした」というレベルの話です)。

ともあれ,現在,認知行動療法とコミュニティワークを統合するような理論的視点を私自身が持っていませんので(「経験的視点」なら,多少あるような気がしますが,それをきちんと理論化しないと専門家としてはNGでしょうから,今はとりあえず「持っていない」としておきます),また面接室で実施する認知行動療法に対してはかなりの手応えを感じていることも事実ですので,当面はこのままいくのだと思います。が,出かけていってCBTを実践するということが,どのようにして安全な形で可能なのか,ということも今後考えていきたいと思います。

べてるの家に出会ってから,これまでもうっすらと感じていた,「面接室内の構造を守ることが,なぜそんなに大切なの?」という声が,自分の中ではますます大きくなりつつある今日この頃なのでした。(と書いてはいますが,クライアントさんにわざわざ我が相談室まで来訪していただき,数十分という決められた時間内で,がっちりと構造を守って実施するCBTだからこその様々な利点は,十分にわかっているつもりです。クライアントさんたちの努力には,本当に頭が下がります。) あるいは面接室内の構造を守りながらよりよい援助を実践することと,面接室外に出かけていってよりよい援助を実践することは,さほど違わないのだという考え方ができるのかもしれません。

●今日のまとめの一言: 興味があれば,自分からどんどん出かけていって人に会うことが重要である。それは「礼儀」ということだけでなく,その人を取り巻く場を含めて,その人と出会うことができるから。その点,面接室で行うCBTはどうなんだろう?

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2005年10月 2日 (日)

【認知療法・認知行動療法】ひとりごと その3:人と会って話す

  なぜかいろいろなイベントや仕事が重なり,9月はブログの更新ができませんでした。ちょっと落ち着いたので,また再開しますが,当面は「ひとりごと」と称して,9月のイベント(特に学会,べてるの家訪問)を振り返り,認知行動療法的に考察するという短い記事を掲載していこうと思います。

  今年は9月に,2つの大きな学会に出たのですが,例年に比べて出番が多く,準備をしているときは「こんなにいろんなことに顔を突っ込まなきゃ良かった」「安請け合いするから,こんなことになるのだ」と自責的認知で泣きそうになっていましたが,いざ終わってみると,非常に充実感があります。その充実感のなかでも,「いろんな人と会って,いろんなことを語り合えた」ということが大きいです。さらに直接語り合ったわけではなくとも,「著書や論文だけで知っている研究者の発表を,その人が自ら語っているのを直接聴くことができた」ということも大きいです。

 臨床や研究においては,文献を読んで勉強することが極めて大事なのはもちろんですが,さらに人と直接会って,「語る」,「語り合う」,「人が語っているのを聴く」という体験をすることで,文献で得た知識を,さまざまな角度から検討する,精緻化したり分厚くしたりする,といった,他では絶対に得られない効果がもたらされるのだと,今回も改めて実感しました。

  というわけで,学会に参加することにはいろいろな意義や目的があると思いますが,「人と直接会う」機会が爆発的に増える,という魅力がまず挙げられるでしょう。そしてそれは学会とか研究会とか,そういうレベルの話だけではなく,たとえば私が実施している認知行動療法(CBT)といったセラピーでも全く同じことなのでしょう。以前,仕事でメールを使ったカウンセリングを実験的に行ったことがありましたが,どうも私にはピンときませんでした。ネットやメールを使ったCBTについての研究もあるようですが(あまり詳しくありません),やはり直接人と人が会って語り合う,というのが不可欠のように思えます。CBTの基本も,前にも強調したとおり,ツールを使った諸技法ではなく(それだけならネットやメールで実施可能),クライアントとセラピストが直接会って,「CBT的語り合い」をすることにあるのではないかと,私は考えます。(この考えは,「べてるの家」に行くたびに,さらに強化されますが,それはまた後日)

●今日のまとめの一言: 人と直接会って話をする,すなわち「語る」「語り合う」「人の語りを聴く」体験は,買ってでもするべきである(「べき思考?」・・・笑)。認知行動療法の基本も,もちろんクライアントとセラピストが「認知行動療法」的に語り合う点にある。

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2005年8月16日 (火)

【一人でできる認知療法・認知行動療法】その9:リラクセーション法 技法④

  ※久々の投稿です。理由はわからないのですが,原稿作成時には特に問題ないのですが,ブログ表示時にフォントがおかしくなってしまうようで,修復の仕方がわかりません。突然字が小さくなって表示されてしまいますが,特に意味はありませんのでご容赦ください。すみませんです。

●【リラクセーション法】

  CBTではリラクセーション法が多用されます。なぜなら役に立つし,安全だからです。実際のCBTのセッションでは,ストレス反応=症状は心身の過剰な緊張の持続によるものだということを,心理学的そして生理学的な説明(心理教育)によって理解してもらったうえで,リラクセーション法の練習に入りますが,ここではとりあえず,最も安全でコストのかからない【リラクセーションのための呼吸コントロール法】について,簡単に紹介します

 リラクセーションには,自分で実施するものと,他人や状況に依存するものの両方がありますが,そのどちらでも構いません。もしあなたが自分の自由になるお金と時間をたっぷり持っているのであれば,わざわざ自分でリラクセーション法を実施しなくても,たとえば温泉に行って,美しい風景を見ながら露天風呂でのんびりし,ついでにマッサージでもしてもらうことを毎日続ければ,まったりとリラックスしつづけられるかもしれません。が,私を含む多くの人は,そんな余裕はありませんよね。だとすると,時間とお金をかけずに,自分で自分をリラックスさせる方法を習得し,毎日実践するのが最も効果的でしょう。私自身,この仕事を選んで良かったなあと思う理由の一つは,数々のリラクセーションを習得し,日常的に実施することで(さらにラッキーなことに,クライアントさんとリラクセーション法を練習するチャンスが多々あることで),肩こりとか不眠とかいった慢性緊張症状から解放されたことです。

●呼吸コントロール法(腹式呼吸法)

 最初に最も重要なポイントを挙げておきます。「嫌な感じがしたら,とりあえず息を吐きましょう」ということです。心身が嫌な感じがするとき,私たちは,浅くて速い呼吸をしているか,息をぐっと詰めてしまっているかのどちらかです。そして嫌な感じがして「苦しいなあ」と思うと,なぜか「息を吸わなきゃ」と思って,さらに息を吸い込んで,自分を苦しくさせてしまうのです。そうやって吸えば吸うほど身体は過酸素状態になって,苦しさは増していきます。それがいわゆる「過呼吸」です。そういうときは,姿勢もおかしくなっています。肩で息を吸うものだから,肩や首や背中や後頭部の筋肉が異様に緊張・収縮して,上半身がガチガチになっているのです。そしてその分下半身は不安定になって,グラグラしています。パニック障害の方が,発作のときに「体がグラグラする」と言うのは錯覚ではなく,本当に下半身が不安定になって,グラグラしていることが多いのです。

 ではどうすればいいか。上記と反対のことをすればいいのです。つまり,下半身に重心を置き,息を吐いて吐いて吐きまくるのです。吐ききれば必要な分だけ自然と息を吸うように,私たちの身体は作られています。そうすれば過剰に吸いすぎることもなく,体がグラグラすることもなく,落ち着いてどっしりとした姿勢を保ち,静かに良い呼吸を繰り返すことができるのです。

  以上の手順をちょっとまとめてみます。

① 下半身(特に足の裏と下腹部)に意識を置いて,安定させる。(相対的に上半身の力が抜けます。)

② 一度,ふぅっと溜め息をつくようにして,口から息を吐きます。

③ 鼻から少しだけ息を吸います。・・・鼻水をすするように,啜り上げるのがコツです。このように息を吸うと,胃のあたりがふわっと膨らみます。

④ ③のようにして少しだけ吸った息を,口から細く長く少しずつ吐いていきます。最初は4秒ぐらいかけて吐ききれば上々です。慣れてきたら,8秒,16秒というふうに,吐く時間を長くしていきましょう。(慣れてくると少しだけ吸った息を,16秒ぐらいかけて楽に吐けるようになります。つまり少しだけ吸った息を,時間をかけてチビチビと大事に吐いていくのです。すごくケチな呼吸ですね)

⑤ 以上の呼吸を何度か繰り返します。結果的に心身の緊張が抜けてきますが,慣れるまでは,むしろどこかに痛みを感じたり,ちょっと苦しくなったりすることもあります。その場合は「嫌な感じがしたら,とりあえず息を吐く」という原則に立ち戻って,息を吐いてください。そして吐ききったらふだんの自然な呼吸に戻してください。そのうち嫌な感じは消えるはずです。

  呼吸コントロールは,最初は以上の手順に意識をしっかりと向けて,この手順を繰り替えすことだけに集中して行うといいでしょう。結果的にリラクセーション反応が得られればラッキーですし,特にリラクセ―ションを実感しなくても,やっていて具合が悪くならなければまずOKと受け止め,とりあえず上のような手順を繰り返しやってみるということを続けてください。そのうち「あれ,なんか力が抜けて,なんだか楽な感じがする」とか「ふうん。リラクセーションってこんな感じなんだ」と,何となく気づくときが来ると思います。そうしたらそのような感覚を大事に味わって,また日々続けていけば良いのです。重要なのは,リラクセーションが大事であることを知っておき,そのための手順を,リラクセーションが得られるかどうかは別として,日々ちょこちょこと実践することです。そのような日常的な実践が,結果的に深いリラクセーションをいつの日かあなたにもたらしてくだれるのです。

●今日のまとめの一言: 心身の過剰な緊張による諸症状は,リラクセーション法の実践により緩和することができる。代表的な方法としては呼吸コントロール法があるが,これははじめからリラクセーションを目的にするのではなく,とりあえず手順をしっかりと意識して,ちょこちょこと実施しつづけることがよい。リラクセーションは結果として得られる体験にすぎない。

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2005年8月 5日 (金)

【一人でできる認知療法・認知行動療法】その8:イメージ技法 技法③

 最近諸事情により脱線気味の当ブログでしたが,本線に戻そうと思います。一人で認知行動療法(CBT)にトライする人に少しでもヒントになれば,という【一人でできるCBT】シリーズに話を戻します。といっても,かなり不十分な記述が続くことと思います。いずれもうちょっと系統立てて,ストレスコーピングの視点から,【ひとりCBT】については書きたいと考えておりますので,どうぞお許しを。何かあればコメントください。

●【イメージ技法】

  認知というと,“言語的な思考”ばかりが注目されがちですが,もう一つの認知である“イメージ”のことを忘れてはなりません。上記の認知再構成法や問題解決法の中にイメージを組み込むということもできますが,これらの技法はどうしても言葉を使って進めていくので,なかなか難しかったりもします。

  イメージの力は強力です。たとえば夢はイメージ的側面が大きいですよね。明け方見た夢によって,寝起きの気分が大きく左右されたりするのは,よくあることです。いわゆるフラッシュバックという現象も,イメージのもつ影響力の大きさを物語っています。逆にスポーツ選手が行う“イメージトレーニング”は,イメージのそのような影響力を意図的にプラス方向に活用しようというものです。

  ここでは私が実際に臨床場面でよく用いる,イメージ技法を二つ紹介してみます。

●イメージリハーサル:「こういうときは,こうしよう」「明日,これをやるときには,こんなふうにできたらいいな」という未来の自分の言動を,できるだけ具体的なイメージとしてリハーサルするというものです。何事も本番の前に,現場で実際の言動としてリハーサルできれば一番良いのですが,そうはいかないことも多々ありますよね。そういうときは,できるだけリアルなイメージをありありと思い描き,イメージの世界でリアルにリハーサルすれば良いのです。夢があれだけリアルなのですから,自分で作るイメージも練習すればするほどリアルに思い浮かべられるようになります。ポイントは,「現実的にできそうなレベルのことをリハーサルする」ということです。

  たとえば翌日,結婚式に呼ばれていてスピーチしなければならない,というときに,私はこのイメージリハーサルを行います。そのときイメージするのは,人々の前で全く緊張せず,よどみなく話している自分ではなく,緊張してマイクを持つ手も少し震えているのですが,なんとか最後まで話をするという自分です。できないことをイメージしても,やっぱりそれはできないので,「とりあえずこの程度できればいいや」というレベルでのリハーサルに留めておくのです。それでも一度リハーサルしておくと,脳はそれを「一度体験したこと」として記憶に留めてくれるので,本番がかなり楽になります。

  明日,苦手な人と話さなければならない,などというときにも,このイメージリハーサルは有効です。どんなふうに挨拶をして,嫌なことを言われたらどう切り替えして・・・といったことを予め決めておいて,リハーサルしておくのです。すると,実際に嫌なことを言われても,リハーサルしたとおりに対応すればよいので,その場でオタオタしなくて済みます。(こういうときって,オタオタしてしまった自分を,後になってクヨクヨと悔やむ羽目に陥りがちなのですが,リハーサルしておくとそれを防げます。)

●壺イメージ法:田嶌誠一先生という方が考案したイメージ法です。一時期私はこの技法の虜になり,壺イメージ法のワークショップやシンポジウムにしょっちゅう参加していました。壺イメージ法は,自分の好きな壺をイメージして,嫌なこと,考えたくないこと,今はそっとしておきたいことなどを,その壺にしまっていく,というイメージワークです。「捨てる」のではなく,「壺にしまっておく」というのがポイントです。詳しくは,田嶌先生の本などを参照していただきたいのですが,入手の難しい本が多いようです。お勧めは『イメージ体験の心理学』(講談社現代新書)なのですが,これも品切れで入手不可能とのことで,興味のある方は図書館などで探してみてください。

  この技法のポイントは,先に自分の壺を決めておくということです。なかなかイメージできなければ,絵に描いてみてもいいですし,実際にどこかで見た壺をイメージすることにしても構いません。自分の思いをそっとしまっておく壺という器を先に決めておいて,嫌なことを考えたり,思い出したりして,そのグルグル思考からなかなか脱け出せない場合,まず先に壺をイメージし,次にそれらの考えや思い出をそこにしまっていくのです。この壺イメージ法は,やってみると意外に簡単で面白いものです。クライアントさんにもよくこの技法は紹介しますが,(いい意味で)はまる人ははまり,「今度嫌なことを思い出したら,こんな壺にしようかな,それともあんな壺にしてみようかな」と,壺の考案そのものを楽しむ人もいらっしゃいます。すると面白いことに,嫌なことがあっても「今日はあの壺に入れちゃえ」と,嫌なことよりも壺に気が向くようになり,それだけでもストレス反応が緩和されることがあるのです。

●今日のまとめの一言: 「認知」とは言語的思考だけではない。もうひとつの認知である「イメージ」は,良い意味でも悪い意味でも強力な影響力をもち,CBTではイメージを活用する技法もよく使われる。

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2005年8月 2日 (火)

【認知療法・認知行動療法】ひとりごと その2:認知心理学とCBTのインタラクション

  とりあえず一言書いておきたいことがあり,一方で「まともな文章を書かねば」と思うと面倒だというときには,「ひとりごと」としてちょちょっと書き残すことにしました。(自分がずぼらになっていくプロセスを晒しているようで,恥ずかしい)

  7月にブログの更新が滞り気味だったのは,日常業務が立て込んでいた他に,外に出かける仕事が多かったのと,仲間と出版する本の原稿作成にとりかかっていたからです。そしてやっと今日,原稿が書き終わりました。その本のテーマのひとつは【基礎心理学と臨床心理学のインタラクション】でして,私は認知心理学の章を担当しました。具体的には,【認知心理学とCBTのインタラクション】(インタフェースと言ってもいいかもしれない)についてです。

  実は私の修論および博論のテーマが,まさに【認知心理学とCBTのインタラクション】でした。しかし私が博士論文の研究計画を立て,先行研究をレビューしたりしていたのは,10数年以上も前のことです。そしてその後,臨床どっぷり生活を続けていた私は,認知心理学の勉強を怠っていたのでした。

  それが数年前から仲間と【基礎と臨床のインタラクション】について語り合うようになり,出版の企画などをしているうちに,他からも原稿や学会での発言を求められることが何度かあり,ひさびさに認知心理学および認知科学の勉強を再開したのでした。

  いやあ,1990年代のとくに後半ぐらいから,認知心理学自体がかなり変化していたんですね。以前このブログでベックの認知療法は「古典的認知療法」で,今現在は「第二世代CBT」が主流であると書きましたが,認知心理学というより認知科学自体も新しい時代に突入していたのです(「コンピュータ・アナロジーによる情報処理アプローチが行き詰っている,これからは日常認知研究だ! でも日常認知研究ってどうやってやるの? たとえばこんなやり方があるよ」というところまでしか,私は把握していませんでした)。その流れを追うのをすっかり怠っていたことに今になって気づき,しかし原稿は書かねばならず,いろいろと調べ始めたら面白くなってきてしまって(とくに「協同学習」や「創造的問題解決」に関する研究が面白い。なにしろCBTの過程は協同的な問題解決過程そのものだから),「あと1年勉強したいから,〆切を来年にして!」などと懇願したかったのですが,そんなことをお願いできるはずもなく,中途半端なレビューに基づき,【認知心理学とCBTのインタラクション】について書かざるを得ない羽目に陥ってしまったのでした。

  というわけで,今回の原稿作成は自分にとっては本当にきつかったです。あまりにもレビューが不十分であることを自覚しながら書いているのですから。しかしまた次のチャンスがあると思うので,今抱えている手間のかかる仕事といくつかの学会が終わったら,しばらくは認知心理学および認知科学の文献購読に何とか時間を割いて,遅れを取り戻したいと思います。

  以上,とりとめのない「ひとりごと」でした。

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2005年7月28日 (木)

【認知療法・認知行動療法】ひとりごと その1:心理の国家資格の法案→上程断念について

  ときどきこのブログでも「ひとりごと」をブツブツ言ってみることにしました。

  さて,心理職の人は皆ご存知だと思いますが,何とか法案が出来上がるところまでは来ていた「臨床心理士及び医療心理師法案要綱骨子(案)」が結局,今国会に上程されずに終わってしまうことになりました。このような結果に至るまでのゴタゴタはここには書きませんが(と言っても,私が知っていることなんてほんの一部ですが),私が一番残念に思っていることは,「これで認知療法・認知行動療法(CBT)が,よりよい形で日本において広まるチャンスを,一つ逸したな~」ということです。それに尽きると言ってもいいかもしれません。

  私自身は臨床心理士の民間資格でこれまで仕事をしてきていますし,今後もしていく所存ですが,実は今回の騒動では,「医療心理師」派でした。なぜなら医療心理師が国家資格化されることで,医療心理師を養成するための大学学部のカリキュラムが編成され,そこには必ず基礎系の心理学とCBTが必修科目として入るだろうと考えていたからです。それに比べて臨床心理士会,臨床心理士資格認定協会,日本心理臨床学会は,CBTがお嫌いなようで(これ以上はここには書きませんが,このように推定する根拠はいろいろとあります),大学院教育でまともにCBTをトレーニングしているところは,ほんの少ししかありません。

多くの人に役に立つであろうということが,エビデンスとして示されているCBTを世に広めるには,専門家養成が不可欠ですが,CBTをきちんと行える臨床心理士を養成しようという姿勢が,臨床心理士会等の団体には見られません。しかし医療現場の心理職に求められるのは,「効果のある方法で早く治してほしい」というユーザー(患者さん)の切実なニーズに応えることです。そして現時点の諸データから,CBTはユーザーのニーズに応える理論と方法論を持っていると考えられます。だとしたらCBT,およびその基盤となる基礎心理学の知識を心理職が習得するというのは,「ベター」ではなくて「マスト」なのではないでしょうか。

以上のことから,私は医療心理師の資格化を望んでいました。私は現在開業しておりますが,医療心理師が国家資格化されて,いずれは医療機関にて認知行動療法が保険適用されるようになれば,私自身は廃業せざるをえないだろうとも思っていました。しかしそれが,CBTがよりよく日本に広まった結果であれば,それでも良いと考えていましたし,今でもそう考えています。きれいごとのようですが,職業倫理とはそういうものだと思いますし,人間としてはともかく,サイコロジストとしては倫理的でありたいと考えています。

というわけで,ここ数日,この資格問題をめぐってかなりがっかりしております。CBTを受けたい人が,安価で良質なCBTを受けられるようになるまでに,日本ではあと何百年かかるのでしょうか?・・・かなり否定的な自動思考ですが,妥当性は高いぞ(笑)。まあ嘆いていてもしょうがないので,私は自分のできることを毎日地道にやっていきたいと思います。・・・立ち直りも早いぞ(笑)。

以上,今回の資格化問題を,「CBTの普及問題」として考えていた者のひとりごとでした。

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2005年7月26日 (火)

【認知療法・認知行動療法】コラムその8:当事者に教えてもらうことが不可欠

  私はずっと思春期や大人を対象とした臨床をやってきており,また精神科や企業に勤めていたせいで,子どもや発達障害の臨床には詳しくありませんし,ほとんど経験もありません。が,最近,CBTが子どもや発達障害の臨床にも活用可能で,しかも効果的であるということが,ちらほら言われるようになってきており,また,アスペルガー症候群と思しき大人を対象としたCBTのケースに関与することが最近何度かあり,発達障害についてきちんと勉強しなくては,と思い始めました。そこで専門家が書いた教科書をいくつか読んでみました。どれもそれなりに勉強になったのですが,最近,『自閉症だったわたしへ』(ドナ・ウィリアムズ著,河野万里子訳,新潮文庫)を読み,大変勉強になると同時に,深く感動しました(「もっと早く読んでおけばよかった」と後悔&反省)。そして改めて,CBTにおいて当事者から教えてもらうことがいかに重要か」ということについて考えましたので,今日はその辺をちょっと書いてみます。

●ドナ・ウィリアムズ著 『自閉症だったわたしへ』(新潮文庫)より

 本書はそのタイトルの通り,自閉症の当事者が大人になってから,自分の生活歴を振り返って手記としてまとめたものです。著者は自閉症のなかでも,知能に欠損がなく,しかも言語能力にも欠損がないというタイプの人で,だからこそ自分の体験を,手記という形で自力で表現することができたのだと思われます。

 私も日々の面接を行うなかでクライアントさんの話を聞きながら,「当事者だからこそ,これほどまでにビビッドに自分の体験を表現できるのだなあ」と感動することがときどきありますが,まさにこの本の著者は,当事者しか語りえない自閉症の世界を,ビビッドに伝えてくれています。そういう意味では,どのページを開いても,「当事者性」に満ち満ちており,自閉症についてにわか勉強を始めた私にとっては全てが非常に新鮮で,わくわくするような気持ちで本書を読み終えました。

 昔,精神科デイケアで,統合失調症の患者さんとおしゃべりをし始めたときの,あのワクワク感を思い出しました。「ワクワク感」などと書くと,失礼だと怒られるかもしれませんが,自分とは違う枠組みで世界や他者を捉えることのできる人のリアルな話を聞くのは,やはり「ワクワクする」としか言いようがありません。病気か病気でないかとか,障害者か健常者かということではなく,自分とは違う世界観があるということを教えてもらうことは,何か目の前の風景がパーッと開けるような,非常に新鮮な気がするのです。

●当事者に教えてもらうことから始まる

CBT

 といった話はひとまず置いておき,臨床的な話に戻りますが,先日の「べてるの家」の記事にも書いたとおり,「当事者が自分について語るのをよりよく聴く」というのが,臨床の基本であることは間違いないと思います。そして真に効果的であることを目指すCBT(認知行動療法)は,まず最初に,当事者のものの見方,考え方,感じ方,振る舞い方,世界との付き合い方について,当事者の視点から教えていただくことを重視するものだと思います。それがCBTにおける,いわゆる“アセスメント”,“ケース・フォーミュレーション”の真髄だと思うのです。

 したがってCBTの実践家は,特にケースの初期段階では,まず当事者(クライアントさん)が自分の体験を,まさに自分の体験として上手に語れるよう,援助しなければなりません。そのようなコミュニケーションの場を提供しなければなりません。それなくしては,どんな強力な技法であれ,大した効果はないでしょう。

 といったCBTの原則は,「べてるの家」を知ることで統合失調症の人との対話においても適用できることを知り,さらに今回本書を読むことで,自閉症の人との対話においても適用できることを知り,とても嬉しくなってしまいました。そして著者は本書を通じて,自分の自閉症体験を,この上なくリアルに私たちに教えてくれているのです。こんなにありがたいことはありません。

 引用したい箇所は多々ありますが,控えめにしておくとして,特に私は本書の最後に,著者が「まとめ」として書いてくれた箇所に感銘を受けました。自閉症としての自分の言動の意味や目的について書いてある箇所です。

 たとえば・・・

著者の「笑い」は緊張や恐怖,不安などを解法するための手段で,感情表出ではないとのことです。社会に受け入れやすい形での恐怖の表現だという。むしろ「手をたたくこと」が喜びの表現であることが多かったとのこと。

 そう教えてもらわなければ,私のような単純な人間は,「笑い」にそのような意味があるだなんて,一生わからなかったかもしれません。

 たとえば・・・

  「わたしに物を受け取らせるには,ありがとうなどの返事や反応をいっさい期待せずに,ただその物を,わたしの近くに置いてくださればいい。何らかの反応を期待されているとわかると,その義務と責任ばかりに気を取られて,品物の方には気持ちがいかなくなってしまうからだ。」(p.472

  「またわたしに話を聞かせるには,わたしのことか,わたしに似た人のことを,大きな声でひとりごとを言うように話してくださればいい。するとわたしは,そのようなことなら自分にも話せることがある,という気持ちになってくる。この時接触は間接的な方がいいわけで,たとえば話しながら窓の外などを眺めていてくだされば,申し分ない。」(p.472

  「何より特徴的なのは,わたしは愛されることをそれほど必要としていたわけではなかった,ということだろう。(略)わたし自身の場合も,愛や親切や,親愛の情や共感は,いつも最大の恐怖の源だった。それらを感じ,自分にはふさわしくないと思いながらもなんとか人の努力に添おうと頑張っていると,フラストレーションはやがて自分など不適当だという思いに変わり,ついには絶望となってしまう。同情も,何にもなりはしない。おとぎ話とは違い,愛は必ずつき返されると思っておいていただきたい。それも,唾を吐きかけられて。しかし愛ではなく,いつも心に留めて気づかうことならば大丈夫なのだ。」(p.475476

 心理臨床の世界で当たり前のように言われている「共感的理解」,「無条件の積極的関心」,「クライアントに寄り添うこと」などといったことについて,それのどこがどこまで当たり前なのか,突きつけてくるような当事者による発言だと思います。そしてそのような当事者の声に耳を傾けなければ,専門家は援助どころか,ひとりよがりな間違いを繰り返し,むしろ当事者に迷惑をかけてしまう存在になってしまうのだと思います(自戒をこめて,あえてこんなふうに書いておきます)。本書にも,専門家に対する著者なりの「抗議」が多々見受けられました。そしてどれも私にとって耳の痛いものでした。

 さらに引用・・・

  「長々と書いてきたが,とにかくわたしは,わたしと同じような人たちを助けるために奮闘している人々に向かい,皆さんの努力は絶対にむだではない,と言いたかったのだ。間接的,客観的な方法で応えることと,無関心であることとは,まったく別のことなのである。」(p.477

 当事者の物の見方,考え方,感じ方,振る舞い方などをまとめてくれた上で,援助者に対してこんなふうにしめくくってくれている,この著者の柔軟性に感じ入るばかりです。それにしても「間接的,客観的な方法で応えること」というのは,CBTのエッセンスであると私は考えます。それが「CBTは冷たい。共感的でない」という批判を呼ぶのでしょうが,「直接的でないアプローチ,客観的なアプローチが,むしろこのように求められるのだ」,ということを当事者に教えていただけることで,日々の臨床で,CBTがたとえばボーダーラインのクライアントさんになぜか効果的に機能することの説明がつくようにも思えます。

 ・・・だんだんダラダラと長くなってきましたが,言いたいことはただ一つ,とにかく他者を援助しようという大それたことを目指すのであれば,当事者である他者に,自身についてとにかく教えていただくしかないのだ,ということです。その「語り」を引き出すための対話の場を構築するのが,臨床家の腕の見せ所であり,各療法の理論やモデルや技法の本質でもあるのだと思います。そして一見「冷たく,客観的」なCBTは,むしろそのための方法論をたくさん持っているのではないかと私は考えています。

●今日のまとめの一言: どんな症状,障害であれ,当事者に教えてもらうことから援助や治療は始まる。CBTは「当事者にいかに生き生きとした情報を教えてもらえばよいか」という視点から,クライアントさんの語りを引き出していくことから,アセスメントを進めていく。

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2005年7月18日 (月)

【一人でできる認知療法・認知行動療法】その7:問題解決法 技法②

 「ひとりCBT」のための,とりあえずの技法紹介を再開します。

●【問題解決法】

 

認知を自分で修正できても,その認知を実生活で“実践”できなければ,「わかってはいるんだけれども・・・」というところで止まってしまいます。また認知よりも行動の面で,やりすぎてしまったり,回避的になってしまったりするなどして,何らかの問題が生じているようであれば,認知再構成法よりもむしろこの“問題解決法”が役に立つかもしれません。

  といってもこれは決して特別な技法ではなく,ふだん私たちが無意識的にせよ意識的にせよ行っている,実生活における問題解決の手順を,あえて“技法”として外在化し,意識的に実践することによって,再度適応的な問題解決法が,その人に内在化されることを目指したものです。

  簡単な手順は次のようなものです。

  問題を具体的に表現する。

  自分がよりよく問題解決できるように,自分に何か言ってみる。

     (例:「今の自分にできることは何だろう?」

  達成可能な現実的な目標イメージを,具体的に表現する。

  目標を達成するための方法を,ブレインストーミングする。

  ブレインストーミングによって案出した様々な方法を,“有効性”“実行可能性”と
いった視点から評価する。

  評価の高い方法を組み合わせて実行計画を立てる。

  計画に沿って“行動実験”し,計画の効果を検証する。

  この問題解決法のポイントは,「大きな問題はできるだけ小さく分解して,解決を試みる」ということです。人は参っているときに限って,「どうやって生きていこう?」などと,漠とした大問題を考えてしまうものです。そういうときこそ,「小さなことを考えよう」と自分に言い聞かせて,「明日からの週末を,どうやってすごそうか」と問いを小さく立て直すのです。できればもっと小さく,たとえば「明日の昼ご飯は,何を食べたら少しいい気分になれるだろうか」とさらに問いを細分化すると,より効果的でしょう。

  “認知再構成法”に比べると,この“問題解決法”はCBTの技法としての注目度が低いように思いますが,私自身は非常に重要でかつ効果的な技法だと考えています。頑張りすぎてうつ病になってしまった人などには,認知再構成法が効果的ですが,逆に自分に自信がなくて,「ああだこうだ」と考えすぎてしまい,その結果いろいろなことを避けてしまって抑うつ状態や不安状態に陥っている人には,むしろ問題解決法のほうが奏効する場合がよくあります。

「どう考えたらいいんだろう」というときには認知再構成法,「どうすればいいんだろう」というときは問題解決法,というふうに使い分ける,というやり方でもいいかもしれません。私は実際にそのように使い分けて自分で使っています。理想としては,両方習得できれば,併用したり,使い分けたりできるので,より対処力の向上を望めます。

●今日のまとめの一言:【認知再構成法】と【問題解決法】は,CBTの二大技法である。「やりすぎ」や「回避」といった行動的な問題がある場合は,問題解決法がより効果的かもしれない。

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2005年7月 7日 (木)

【認知療法・認知行動療法】コラムその7:“浦河べてるの家”について ③

  今日で「べてる」ネタをいったんお終いにします。しつこいようですが,詳細は 『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家   医学書院)を参照してください。

●「ネガティブな自動思考」は「お客さん」として付き合う

 先日私は,自動思考に「歪み」というレッテルを貼ることへの違和感について書きましたが,それは自動思考が「自分の(なかに生じる)思考」という前提があっての話でした。べてるの外在化能力は,そういう私の違和感など笑い飛ばすようなものでした。べてるでは,ネガティブな自動思考を「お客さん」と呼ぶのだそうです。

「お客さん」!!! 自分に生じる思考ではなく,外からやってくる「客」なのです。お客さんはお客さんだからこそ「ごめんください」と勝手にやって来るけれども,そのお客さんにどう対応するかは,「この私」が決められるのです。そしてどう対応するか決めるためには,そのお客さんがどういう客か,見極めなければなりません。見極めたうえで,そのお客さんとどう付き合うか,すなわち今後も来てほしいから丁重にもてなすのか,たとえお客といえどもお付き合いはまっぴらだから丁重にお引取り願うのか,むかつくお客だから喧嘩を売るのか,面倒くさいお客だから何を言われても無視するのか・・・etcについて,検討するのです。そして実際にそのお客さんとの付き合い方をあれこれ試しながら,自分にとって苦痛にならない付き合い方を見つけ,身につけていくのです。このようなプロセスは,CBTにおける強力な技法である“認知再構成法”に他なりません。

  以前私はこのブログのコラムで,中村うさぎさんの「ツッコミ小人」を自動思考に対するナイスなネーミングであると絶賛しました。中村さんの文章によれば,ツッコミ小人はあくまで自分の脳内に発生する小人らしいです。中村さんほどのパワーの持ち主なら小人のツッコミにいろいろと対応できるかもしれませんが,気の弱い,または気の小さな,あるいは気の優しい凡人は,さらに外在化を極めた「お客さん」として自動思考をとらえると,より対応しやすくなるような気がします。自動思考を「お客さん」と名づけるという営為に,まさに病気と共に生きるべてるの人たちの知恵が凝縮されているように思います。

  ちなみにべてるの人たちは,幻聴も呼び捨てにはしません。「幻聴さん」と呼び,丁重にもてなしたり,お引取り願ったりしています。そしてお客さんと同様に,幻聴さんとの付き合い方も,べてるの当事者研究の一大テーマなのです。

●病名も自分でつけるべてるの人たち

  当事者研究(自己研究)を通じて,べてるの人は,自分の病気や症状や問題や悩みをセルフアセスメントします。その結果,自分に合った病名を自分でつけるようになります。たとえば同じ統合失調症でも,「依存系爆発型統合失調症」,「統合失調症・体感幻覚暴走型」,「統合“質”調症・難治性月末金欠型」(“質”とは“質屋”の“質”です),「逃亡失調症」・・・などなどです。ちなみに最後の「逃亡失調症」はべてるの施設長の荻野さんの自己病名です。さまざまな理由により,気がつくと職場を放棄して「逃亡」しちゃうからです(逃亡先が自宅だったりするところが,お茶目です)。私が見学に行ったときは,幸いにも逃亡中ではなく,施設長としてべてるの説明や案内をしてくれました。

●山本賀代さんの自己研究

『べてるの家の「当事者研究」』(医学書院)から,お客さん(すなわち自動思考)についての考察を紹介します。当事者の一人である山本賀代さんの「研究論文」からの引用です。ちなみに山本さんの自己病名は「依存系自分のコントロール障害」だそうです。

別居後,身体上は平和を手に入れたわたしには,悪い<お客さん>との本格的なつきあいが待っていた。下野(注:元同棲相手)と同居していたときの<お客さん>は,すべて彼を悪者にしてわたしにケンカを売らせ,生活を破綻に導いていた。下野という爆発対象を失った<お客さん>は,以前そうだったようにわたしに矛先を向けてきたのだ。

わたしの<お客さん>のメインテーマは,あらゆる手段を使ってわたしを“死”へ導こうとすることだ。わたしの<お客さん>は過去の傷ついた経験から来ていて,その傷ついた経験に非現実的な恐怖感や不安感を加えることによって,わたしを現実の地道な苦労から遠ざけ,わたしの行動を制限させる。しかし一方で,それによって,実際の人間関係でこれ以上深く傷つくことからわたしを守っているのかもしれないと考えてきた。

だからこそわたしは,悪い<お客さん>にお茶を出し,頭の中に長居させていたのだが,ソーシャルワーカーと数人の仲間と始めた「日本語会話教室」という試みが,<お客さん>とのつきあい方を勉強するのにけっこう有効だった。日本語会話教室で学ぶうちに<お客さん>を一方引いて見て,自分が取り入れたい<お客さん>なのかどうかなど考えることが多少はできるようになった。

「日本語会話教室」とはおもしろいネーミングをしたなぁと思う。これは,「自分の言葉を取り戻そう」という発想から生まれたもので,『自分を愛する十日間トレーニング』という本を参考にしている。具体的には,小グループで週に一度一時間半ほどの時間で,ソーシャルワーカーの助けを借りながら,この一週間の<お客さん>状況を話したり,本を参考に自分に当てはめてロールプレイをする。

(略)悪い<お客さん>にジャックされて自分を責めているときに,大事な友達を励ましてあげるように自分に言ってあげるロールプレイはよかった。みんな,自分に対してはうんと辛口なのだが,友達に対してなら優しくなれるものだ。

(略)<お客さん>とのつきあい方で肝心なのは,やはり誰かにその<お客さん>の話ができることだ。一人で抱え込むと<お客さん>に完全にジャックされる確率が高まる。そしてできるだけ多くの人とかかわりを持つことで,<お客さん>もバラエティ豊かになり,つきあいやすくなることがわかった。

(『べてるの家の「当事者研究」』 pp.174-177

  認知再構成法のグループ学習をべてるでは「日本語会話教室」と呼んでいるというのも,素敵です。たしかに認知再構成法は,自分の中で起きている会話を,自分にとって苦しくないものに置き換えていこうという技法ですから,この「日本語会話教室」といタイトルは妥当だと思います。それにしてもべてるの人たちによる様々なネーミングは,極めてユニークで楽しいものが多いです。「認知再構成法のグループ学習やろうよ」と言われるより,「ちょっと日本語会話教室行かない?」と言われるほうが,よほどそそられますよね。

  以上,3回に分けて,CBTの視点から“浦河べてるの家”について書いてきました。べてるには年間数千人もの見学者が訪れるそうです。また「自分もべてるで暮らしたい」とやって来る当事者の方も多数おられるそうです。が,当然べてる及び浦河町のキャパシティには限りがあり,べてるの方々は,「皆がべてるに来るのではなく,それぞれの地域で“べてる的”な活動を実践してほしい」とおっしゃっています。私もその通りだと思います。しかし,一体どうやって,皆がそれぞれ自分の住む場所で“べてる的な活動”を実践すればよいのでしょう? ここに私はCBTの視点が貢献できる可能性があるのではないかと考えています。CBTの視点を用いて,べてるの家の活動を,ある程度一般化されたモデルとして提示するのです。時間はかかると思いますが,“CBTの視点を用いたべてるの家の活動のモデル化“ということを,自分のテーマとして追求していこうと私は考えています。

●今日のまとめの一言: 扱いに困るようなネガティブな自動思考は,「お客さん」とみなし,付き合い方を見つけていくのがよい。・・・という視点から,べてるの家の人たちは「日本語会話教室」というグループ学習を続けている。そして,このようなべてるの活動を,CBTの視点から一般化・モデル化することが,役に立つかもしれない。

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2005年7月 4日 (月)

【認知療法・認知行動療法】コラムその6:“浦河べてるの家”について ②

 というわけで,“べてるの家”について,続きです。

●「べてる祭り」にも行ってみた

 2003年の夏,べてるの日常を垣間見させてもらった私は,さらにべてるの活動に興味が沸いてきました。その根底には,べてるの活動とCBTの豊かさを,何とか自分なりにもっと理解したい,自分のCBTの実践に役立てたい,ひいてはべてるを引き合いにCBTの豊かさを人に伝えたい,という私なりの(自分勝手な?)動機があるのですが。

 そこで2004年の6月には,べてるの総会(べてる祭り)にも行ってみました。この総会は年に1回開催され,全国から当事者や対人援助を専門とするボランティアや専門家が集まって,べてるの活動や全国の当事者活動について発表したり,懇親したりするものです。ちなみに昨年,べてるの総会に行こうと思い立って,そのかなり前に浦河のホテルを取ろうとしたら,どこも満室でびっくりした記憶があります。べてるの活動がその土地の商業活動にしっかり貢献しているということが,このことでよくわかりました。(結局あるビジネスホテルに「どんな部屋でもいいから」と泣きついて,1室提供してもらったので,なんとか宿泊場所は確保できました)

 べてる祭り・・・堪能しました! 当事者研究についての発表を聞くのが,私がべてる祭りに行った主目的でしたが,種々の発表や出し物全てがとても面白かったです。

 おそらくこの総会(べてる祭り)のメインイベントは,「幻覚&妄想大賞」でしょう。幻覚や妄想を体験する人は,それをひた隠しにすることが多いのですが,浦河では,それを外在化し,いかに自分の幻覚&妄想がすさまじいかということを語ることで表彰までされてしまうのです。これは究極の“リフレーミング”ではないでしょうか。(残念ながら私は帰りの飛行機の都合で,幻覚&妄想大賞の表彰式を見届けることなく,退出せざるを得なかったのですが)

●当事者研究の素晴らしさ

 さて,その「当事者研究」です。

 先日お書きした通り,私は林園子さんとべてるショップでおしゃべりした際,べてるの「自己研究」=「当事者研究」について教えてもらいました。そしてCBT的な視点から,この当事者研究にいたく興味を抱いたのです。

 べてるの家では,毎日のようにミーティングが開かれています。その一つに,同じような問題を抱えている人たちが,自分たちの問題を「自己研究」するというものがあり,そこでメンバーは自分や仲間の問題について「研究」するのです。

 その当事者研究のプロセスは,以前私が「新世代CBT」とか「第二世代CBT」とここで書いたCBTのアセスメント(ケース・フォーミュレーション)のプロセスと同様のものです。

 当事者研究は以下の手順で進められます。

自分や自分を取り巻く状況がうまくいかないのは,一体どういうことなのか?という問いを立てる

現実場面でどんなことが起きているかをモニターし,それを絵や図に描いていく。すなわち悪循環を外在化する

 モニターや外在化をするなかで,「うまくいかないとき」のパターンに気づく。悪循環を維持させているポイントに気づく

 さまざまな気づきから学んだことをさらに外在化し,それを今後に生かす

 たとえば林園子さんは,自分が幻聴に襲われたり,何かについて不安になって他人に何度も確認してしまったりすることについて自己研究しました。その結果,自分がどういうときにそうなってしまうのかに気づき,またどうすればそういう自分を自分で救い出せるかを知り,それらを循環図として外在化しました。またそのことを仲間と共有しました。その結果,問題が解消するわけではないのですが,問題が発生したとき,自分がどういう循環に巻き込まれているのか自覚することができますし,仲間も同じ循環図を頭に浮かべて林さんの問題を同じように理解することができます。すると林さん本人,あるいは周りの人が,何らかの対処法に気づき,何とか悪循環から脱け出すことができるのです。

たとえば林さんはお腹がすいているとき,自分が非常にくどくなってしまうことに気づき,それを仲間にも伝えました。その後林さんは,お気に入りのヨーグルトを冷蔵庫に予め用意し,くどくなってきたらヨーグルトを食べて自分を落ち着かせることもできるようになりました。しかしそうもできず,仲間に対してくどくなってしまったとき,誰かが「あ,林さん,きっとお腹がすいているんだ」と思って,お菓子をあげたり,カップラーメンを届けてあげたりすることで,やっぱり林さんは,くどさの悪循環から何とか脱け出すことができるようになったのです。

 林さんの当事者研究で圧巻なのは,自分のくどさを中心とした問題に「くどうくどき」と名前をつけ,キャラクター化したことでしょう。彼女は実際に「くどうくどき」君という人形を作り,それを身につけるようになりました。そして自分がくどくなった時にその人形を見て,「また,『くどうくどき』が悪さをしている」と気づき,対処法を考えることができるようになったのです。これって究極の外在化ではないでしょうか。(さらにすごいのは,「くどうくどき」人形や,林さんの「くどさの悪循環」と「くどさから脱け出す良循環」とすごろくにしたものを,販売するべてるですが・・・・私もすごろく買いました!)

  それにしても,やはり私は,“べてるの家”や“当事者研究”の魅力をここでうまく表現できません。できれば,『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家 著,医学書院)をお読みいただければ,と思います。読み物としても面白いですし,CBT的な視点から読むこともできますし,お勧めです。これまで私は当ブログで「ひとりCBT」を提唱してきましたが,べてるの当事者研究は,いわば「みんなCBT」なのだと,本書を読んで改めて思いました。

●「問題志向」への確信

 ところで私は,セラピー(とくにCBT)とは,“協同的な問題解決の過程”であると定義づけていますが,その際,「問題」を志向すると考えるべきか,「解決」を志向すると考えるべきか(「べき」と堅苦しく考える必要はないのでしょうが,理論や研究を考える際には,このような問いも必要だと思います),実は数年間,自問自答しつづけていました。

しかし,べてるの活動を知り,実際に見学に行くなどしてその実態を目の当たりにしたことで,私のこの自問自答には一応決着がつきました。やっぱり,まずは「問題」を志向するんです! ケースによっては戦略的に「解決」を志向するという見せ方もあるでしょうが,やはり基本は「問題」を志向し,志向しつづけるなかで,おのずと対処法や解決法が見えてくる,という流れが,セラピーとしては自然だし,むしろ効果的であるということを,改めて理屈として納得するに至りました。

つまり,「どうするんだ?」ではなく,「一体,どうなっちゃっているんだ?」という問いにこだわるのです。これがCBTでいうアセスメント(ケース・フォーミュレーション)ですし,べてるの家の当事者研究なのだと思います。

  と,ここまで書いていてふと思ったのですが,ダイエットも同じなあ,と。理論的には行動療法が根底にある「体重測るだけダイエット」というのがあります。闇雲に「○○ダイエット」(○○には,「りんご」とか「ゆで卵」とか「炭水化物抜き」とかが入る)をするんではなく,ただ毎日体重を測るだけの方法です。そしてやはりこれってそれなりに効果があるのです(あくまでも「それなりに」ですが)。つまり痩せたいがゆえに「○○ダイエット」を試みるのではなく,「いったいどうなってるの?」ということを,体重を毎日モニターすることで,むしろ体重が減らないメカニズム(すなわち悪循環)に自分で気づき,あえて「○○ダイエット」といった大それたことにチャレンジしなくても,日々,小さな工夫をすることによって,気づいたらそれなりに体重が減っていた!というやり方です。これがまさに「解決志向」ではなく,「問題志向」または「問題解決志向」なんだと思います。

 べてるの家の人たちも,「べてるは問題だらけ」だと言っています。そして「問題だらけでいいじゃないか」と。これは単なる開き直りではなく(開き直りでもいいのですが・・・開き直った時点で「問題」はすでに「問題ではない」とも言えるので),「問題だらけである現状を認めようよ」という出発点を示しているのだと思います。そしてやっぱり「問題だらけである現状を認めた」時点で,その現状に対する認知はすでに変化しているとも言えるのです。

 ・・・ぐだぐだ書いていますが,やはりべてるの活動を,私が端的に表現するのは難しいです。くどいようですが,『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家 著,医学書院)をお勧めします。(林園子さんの「くどうくどき」が乗り移ってきたか・・・???)

●今日のまとめの一言:“浦河べてるの家”の当事者研究は,究極の「ひとりCBT」ならぬ「みんなCBT」である。そしてべてるの家の当事者研究は,「問題志向」の重要性を示すものでもある。

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2005年6月30日 (木)

【認知療法・認知行動療法】コラムその5:“浦河べてるの家”について ①

●「べてるの家」の活動には,CBT実践のヒントが詰まっている

  前回,「問題解決法」について掲載すると予告しましたが,ちょっと予定を変えて,“浦河べてるの家”について,書いてみたいと思います。というのも,たまたま今日電車で『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家 著,医学書院)という本を読んでいたら,その「あとがき」で,べてるの家のメンバーの一人であった林園子さんが,昨年(2004115日)に亡くなっていたということを知ったからです(享年35)。

  私は“浦河べてるの家”という活動・コミュニティに,CBTの研究者・実践家として並々ならぬ関心を持っています。その経緯について今日は述べたいと思います。

  私が現場でCBTの実践を始めて,それなりの年月が経ちますが,CBTをやればやるほど実感されるのが,「テキストに書いてあるよりも,現場でのCBTはもっと豊かで役に立つ」ということです。テキストに書かれているCBTの理論やモデルやマニュアルはとてもスマートです。そしてその通りにCBTが進めば,なんて効率的かつ効果的なんだろう,というものでもあります。

  が,何でもそうですが,マニュアル通りに物事が進むなんてことは,現実にはあるはずもなく,また私がCBTを始めた当初はCBTのスーパーヴィジョンやワークショップなどを日本で受ける機会もほとんどなく,「どうすればいいんだろう」と壁にぶち当たるたびに,当事者であるクライアントさんと相談しながら,CBTを進めていくというやり方を取っていました。そしてそのようなやり方のおかげで,【クライアントさんとともに創り上げていくセラピー】というものを体得したように思います(と言っても,まだまだなんですが・・・泣)。また,CBTでの対話や実践を通じて,クライアントさんの自助力が回復したり向上したりすることを目の当たりにし,人間が本来的に持っている回復力や自助力に対する信頼感が,私自身のなかに育まれていったように思います。つまり決してスマートには進まない現場のCBTだからこそ,そこから得られる豊かな副効果のようなものが,多々あるのではないかと思うのです。

  しかしこういうことってCBTのテキストにはあんまり書かれていませんし,私も研究会や学会等でCBTについて発表することがそれなりにあるのですが,上記のような実感を伝えたいなと思いつつ,うまく伝えられないもどかしさをずっと抱えていました。