私はずっと思春期や大人を対象とした臨床をやってきており,また精神科や企業に勤めていたせいで,子どもや発達障害の臨床には詳しくありませんし,ほとんど経験もありません。が,最近,CBTが子どもや発達障害の臨床にも活用可能で,しかも効果的であるということが,ちらほら言われるようになってきており,また,アスペルガー症候群と思しき大人を対象としたCBTのケースに関与することが最近何度かあり,発達障害についてきちんと勉強しなくては,と思い始めました。そこで専門家が書いた教科書をいくつか読んでみました。どれもそれなりに勉強になったのですが,最近,『自閉症だったわたしへ』(ドナ・ウィリアムズ著,河野万里子訳,新潮文庫)を読み,大変勉強になると同時に,深く感動しました(「もっと早く読んでおけばよかった」と後悔&反省)。そして改めて,「CBTにおいて当事者から教えてもらうことがいかに重要か」ということについて考えましたので,今日はその辺をちょっと書いてみます。
●ドナ・ウィリアムズ著 『自閉症だったわたしへ』(新潮文庫)より
本書はそのタイトルの通り,自閉症の当事者が大人になってから,自分の生活歴を振り返って手記としてまとめたものです。著者は自閉症のなかでも,知能に欠損がなく,しかも言語能力にも欠損がないというタイプの人で,だからこそ自分の体験を,手記という形で自力で表現することができたのだと思われます。
私も日々の面接を行うなかでクライアントさんの話を聞きながら,「当事者だからこそ,これほどまでにビビッドに自分の体験を表現できるのだなあ」と感動することがときどきありますが,まさにこの本の著者は,当事者しか語りえない自閉症の世界を,ビビッドに伝えてくれています。そういう意味では,どのページを開いても,「当事者性」に満ち満ちており,自閉症についてにわか勉強を始めた私にとっては全てが非常に新鮮で,わくわくするような気持ちで本書を読み終えました。
昔,精神科デイケアで,統合失調症の患者さんとおしゃべりをし始めたときの,あのワクワク感を思い出しました。「ワクワク感」などと書くと,失礼だと怒られるかもしれませんが,自分とは違う枠組みで世界や他者を捉えることのできる人のリアルな話を聞くのは,やはり「ワクワクする」としか言いようがありません。病気か病気でないかとか,障害者か健常者かということではなく,自分とは違う世界観があるということを教えてもらうことは,何か目の前の風景がパーッと開けるような,非常に新鮮な気がするのです。
●当事者に教えてもらうことから始まるCBT
といった話はひとまず置いておき,臨床的な話に戻りますが,先日の「べてるの家」の記事にも書いたとおり,「当事者が自分について語るのをよりよく聴く」というのが,臨床の基本であることは間違いないと思います。そして真に効果的であることを目指すCBT(認知行動療法)は,まず最初に,当事者のものの見方,考え方,感じ方,振る舞い方,世界との付き合い方について,当事者の視点から教えていただくことを重視するものだと思います。それがCBTにおける,いわゆる“アセスメント”,“ケース・フォーミュレーション”の真髄だと思うのです。
したがってCBTの実践家は,特にケースの初期段階では,まず当事者(クライアントさん)が自分の体験を,まさに自分の体験として上手に語れるよう,援助しなければなりません。そのようなコミュニケーションの場を提供しなければなりません。それなくしては,どんな強力な技法であれ,大した効果はないでしょう。
といったCBTの原則は,「べてるの家」を知ることで統合失調症の人との対話においても適用できることを知り,さらに今回本書を読むことで,自閉症の人との対話においても適用できることを知り,とても嬉しくなってしまいました。そして著者は本書を通じて,自分の自閉症体験を,この上なくリアルに私たちに教えてくれているのです。こんなにありがたいことはありません。
引用したい箇所は多々ありますが,控えめにしておくとして,特に私は本書の最後に,著者が「まとめ」として書いてくれた箇所に感銘を受けました。自閉症としての自分の言動の意味や目的について書いてある箇所です。
たとえば・・・
著者の「笑い」は緊張や恐怖,不安などを解法するための手段で,感情表出ではないとのことです。社会に受け入れやすい形での恐怖の表現だという。むしろ「手をたたくこと」が喜びの表現であることが多かったとのこと。
そう教えてもらわなければ,私のような単純な人間は,「笑い」にそのような意味があるだなんて,一生わからなかったかもしれません。
たとえば・・・
「わたしに物を受け取らせるには,ありがとうなどの返事や反応をいっさい期待せずに,ただその物を,わたしの近くに置いてくださればいい。何らかの反応を期待されているとわかると,その義務と責任ばかりに気を取られて,品物の方には気持ちがいかなくなってしまうからだ。」(p.472)
「またわたしに話を聞かせるには,わたしのことか,わたしに似た人のことを,大きな声でひとりごとを言うように話してくださればいい。するとわたしは,そのようなことなら自分にも話せることがある,という気持ちになってくる。この時接触は間接的な方がいいわけで,たとえば話しながら窓の外などを眺めていてくだされば,申し分ない。」(p.472)
「何より特徴的なのは,わたしは愛されることをそれほど必要としていたわけではなかった,ということだろう。(略)わたし自身の場合も,愛や親切や,親愛の情や共感は,いつも最大の恐怖の源だった。それらを感じ,自分にはふさわしくないと思いながらもなんとか人の努力に添おうと頑張っていると,フラストレーションはやがて自分など不適当だという思いに変わり,ついには絶望となってしまう。同情も,何にもなりはしない。おとぎ話とは違い,愛は必ずつき返されると思っておいていただきたい。それも,唾を吐きかけられて。しかし愛ではなく,いつも心に留めて気づかうことならば大丈夫なのだ。」(p.475-476)
心理臨床の世界で当たり前のように言われている「共感的理解」,「無条件の積極的関心」,「クライアントに寄り添うこと」などといったことについて,それのどこがどこまで当たり前なのか,突きつけてくるような当事者による発言だと思います。そしてそのような当事者の声に耳を傾けなければ,専門家は援助どころか,ひとりよがりな間違いを繰り返し,むしろ当事者に迷惑をかけてしまう存在になってしまうのだと思います(自戒をこめて,あえてこんなふうに書いておきます)。本書にも,専門家に対する著者なりの「抗議」が多々見受けられました。そしてどれも私にとって耳の痛いものでした。
さらに引用・・・
「長々と書いてきたが,とにかくわたしは,わたしと同じような人たちを助けるために奮闘している人々に向かい,皆さんの努力は絶対にむだではない,と言いたかったのだ。間接的,客観的な方法で応えることと,無関心であることとは,まったく別のことなのである。」(p.477)
当事者の物の見方,考え方,感じ方,振る舞い方などをまとめてくれた上で,援助者に対してこんなふうにしめくくってくれている,この著者の柔軟性に感じ入るばかりです。それにしても「間接的,客観的な方法で応えること」というのは,CBTのエッセンスであると私は考えます。それが「CBTは冷たい。共感的でない」という批判を呼ぶのでしょうが,「直接的でないアプローチ,客観的なアプローチが,むしろこのように求められるのだ」,ということを当事者に教えていただけることで,日々の臨床で,CBTがたとえばボーダーラインのクライアントさんになぜか効果的に機能することの説明がつくようにも思えます。
・・・だんだんダラダラと長くなってきましたが,言いたいことはただ一つ,とにかく他者を援助しようという大それたことを目指すのであれば,当事者である他者に,自身についてとにかく教えていただくしかないのだ,ということです。その「語り」を引き出すための対話の場を構築するのが,臨床家の腕の見せ所であり,各療法の理論やモデルや技法の本質でもあるのだと思います。そして一見「冷たく,客観的」なCBTは,むしろそのための方法論をたくさん持っているのではないかと私は考えています。
●今日のまとめの一言: どんな症状,障害であれ,当事者に教えてもらうことから援助や治療は始まる。CBTは「当事者にいかに生き生きとした情報を教えてもらえばよいか」という視点から,クライアントさんの語りを引き出していくことから,アセスメントを進めていく。
最近のコメント